7 「つくる会」の崩壊――その真相に迫る

05年8月12日正午すぎ、杉並区役所前。杉並区教委によって「つくる会」の歴史教科書が採択された直後、
暴挙に抗議の声をあげる結集した人々。藤岡信勝氏(当時「つくる会」副会長)にひきいられた
数百人の右翼・ファシストと
対峙・対決して、結集した労働者民衆は採択阻止のため最後まで闘いぬいた。
この夏の闘いとその後のねばり強い撤回の闘いが、ついに今日、「つくる会」を分裂と崩壊に追いやった。
1 執行部が全員解任――八木・藤岡・西尾氏も相互に不信と対立を深める
今回は、「つくる会」の空中分解という重大な事態を受けて、「『つくる会』教科書を斬る」というよりも、「『つくる会』を斬る」ということで述べていきたいと思います。
このかんの「つくる会」のホームページや『産経新聞』などの報道によれば、昨年9月以降、教科書採択戦での大敗北の総括をめぐって「つくる会」内部で激しい紛争が発生し、今年に入ってこれまでの執行部が総崩壊するというきわめて深刻な事態にまで発展しました。
2月27日の理事会で、「つくる会」の八木秀次会長・藤岡信勝副会長・宮崎正治事務局長の解任決議がそろって採択されました。激論の末、八木会長については6対5で、藤岡副会長については7対4で解任が決定されたのでした。
これについて八木氏は、「今回の解任は私の意図と離れたいきなりのものであり、またその手続きや理由にも納得のいかないものがあり、受け入れることができない」と述べています(「つくる会」のホームページ 3月6日付「会長退任に当たって〔声明〕」より)。
これに先立つ1月の理事会では、「つくる会」の初代会長であり名誉会長に就任していた西尾幹二氏が、八木氏らとの対立のなかで辞任しました。西尾氏は、インターネット上でそのいきさつを公表し(3月7日付「『つくる会』顛末記」)、「いかなる意味でも私は『つくる会』に今後関係を持たないこと、影響力を行使しないことを宣言します」「今日を最後に、私は『つくる会』の歴史から姿を消すことにいたしたいと思います」と述べています。
また、この「顛末記」において西尾氏は、「新版『新しい歴史教科書』は私の記述の主要部分が知らぬ間に岡崎久彦氏〔監修・執筆者、元駐タイ大使〕の手で大幅に改筆され、この件で、執筆者代表の藤岡氏からいかなる挨拶も釈明もなかったことを遺憾として」きたこと、「採択が終るまでこの件を表立てて荒立てることは採択に悪影響を及ぼすから止めるようにと理事諸氏に抑えられ」たことを明かしています。そして、執筆者として名前が掲載されているにもかかわらず新版『新しい歴史教科書』には一切責任をもたない(!)と決定的な態度表明をおこなっています。
西尾氏が藤岡氏にたいして深い不信の念をいだいていることは明らかです。
2 「杉並の採択戦」が内部対立爆発のきっかけと告白
もともと、「つくる会」は西尾氏と藤岡氏の2人が呼びかけて結成されたものです。また、八木・藤岡両氏は、それぞれ「つくる会」公民教科書と歴史教科書の代表執筆者です。この創立者・代表執筆者が全員、辞任あるいは解任となったということは、「つくる会」が事実上崩壊したことを意味するものにほかなりません。
この崩壊をもたらしたものこそ、昨年の教科書採択をめぐる全国的運動、とりわけ東京・杉並での激突でした。「つくる会」は当初、「東京で50%、全国で10%の採択をめざす」と豪語していました。そして、ファシスト石原都知事―ファシスト山田区長のラインで杉並区を最大の突破口として全体重をかけた攻撃に出てきました。
これにたいして、闘う杉並区民や教育労働者を先頭に労働者民衆が真っ向から怒りの反撃に立ちました。都政を革新する会も、当時闘われていた長谷川代表を押し立てての東京都議会議員選挙において教科書一本にテーマをしぼり、徹底的に闘いぬきました。
山田区長・納冨教育長は「つくる会」と結んで不正と無法の限りを尽くしてかろうじて「歴史」教科書の採択を強行したものの、「つくる会」の全国的戦略は大破産し、採択率は「歴史」で0・39%、「公民」で0・19%という見るも無惨な大敗北に終わったのです。
こうして昨年9月、この敗北の総括をめぐって「つくる会」の内紛が始まりました。この点について、先の西尾氏の「顛末記」は次のように書いています。
採択戦の最も熱い場面で、もっと目に立つ運動をしてほしいという現場会員からの支援要請があるにも拘らず、文部省が「静謐な環境を」といったことを真に受けて、積極的な運動をむしろ「やってはいけない。敵と同じ泥仕合をしてはいけない」と抑えつけたのが宮崎さんでした。杉並の採択戦でとうとう藤岡氏が怒りを爆発させました。……彼〔宮崎氏〕は几帳面な人ですが、「つくる会」の「事務局長」という対決精神を求められるポストには向いていないのです。
要するに、総括論議において、藤岡・八木・西尾氏らは、杉並での攻防について、労働者民衆の区役所包囲に対抗する右翼側の大動員の組織化に立ち遅れたことや、反対派教育委員への個人攻撃を早い段階で開始しなかったことを問題視し、宮崎事務局長の更迭を求めてその責任を追及しました。しかしこれにたいしては、宮崎氏が「俺を辞めさせたら全国の神社、全国の日本会議〔「つくる会」ときわめて密接な関係にある全国的な改憲右翼組織〕会員がつくる会から手を引く」と対抗したとのことです(西尾「顛末記」)。そして、これを受けて八木氏が動揺を深め、「ほとんど信じられない迷走ぶりをくりかえしだした」(同上)らしい。「顛末記」によれば次のようです。
「つくる会」の地方支部は大体「日本会議」と同じメンバーで重なります。日本会議を敵に回すことは「つくる会」の自己否定になる、と八木さんはおびえていました。……彼は会の「宥和」を第一に考えました。そして、日本会議や日本政策研究センターが協力しなくなるという恐怖の幻影におびえつづけたのです。……私は会の独立が大切だと思いました。一つのネットワークが一つの会組織に介入して、四人組〔宮崎氏を擁護する4人の『つくる会』理事〕をその尖兵として送りこんできているのではないかとの疑念を抱きつづけました。
こうして、宮崎氏にたいする責任追及に端を発した内紛は、分裂と対立、動揺と混乱を深め、12月には宮崎氏を擁護する4人の理事(内田智・新田均・勝岡寛治・松浦光修氏)による執行部にたいする異例の抗議声明に発展し、さらには藤岡・八木・西尾氏間の深刻な対立をも生みだし、この1―3月の事態へとのぼりつめていったのです。
3 「つくる会」新体制は早くもボロボロ――扶桑社も相手にせず
「つくる会」では、解任直後の3月1日に藤岡氏が会長補佐に返り咲き、事実上のトップとして復権しました。そして、種子島経(たねがしまおさむ)新会長(BMW東京
元社長)・藤岡会長補佐のラインでひとまず会の運営がおこなわれようとしているようです。
種子島会長はイスラエルロビイストで「キリストの幕屋」との関係が指摘されています。また、藤岡会長補佐と「キリストの幕屋」との密接な関係はすでに公然の事実です(「研究:ネット右翼と嫌韓流」第4回「キリストの幕屋とは?」を参照してください)。
しかし、この「つくる会」新体制にたいしては、『産経新聞』も扶桑社もじつに冷たい態度をとっていると言われています。またこのかん、「歴史」教科書監修者の伊藤隆理事(東京大学名誉教授)も、「内紛を絶えず引き起こす藤岡氏が実質上のリーダーとなるような今日の事態のもとで理事として名を連ねることはできない」旨を述べて、理事を辞任しました。「つくる会」はいまやボロボロと崩れ去りはじめています。
杉並での教科書採択をめぐる大衆的闘いとその後の採択撤回をめぐるねばり強い闘いは、「つくる会」を文字どおり窮地に追いつめ、それを完全に打倒する絶好の情勢を切り開きました。
執筆・監修体制が崩壊し採択責任者(杉並区・納冨教育長)が辞任してしまった無責任・ファシスト教科書――この撤回に向けて、山田区長の責任を厳しく追及しつつ、さらに力強くさらにねばり強く闘いぬきましょう。勝利は私たちのものです。
6 無差別爆撃を始めたのはだれか――ゲルニカと重慶

パブロ・ピカソ作「ゲルニカ」(1937年初夏 マドリッド・ブラド美術館所蔵)
1 ナチス・ドイツ、ソ連スターリン主義と手を組んで「南方進出」・対米戦争
「つくる会」歴史教科書の214nには、「20世紀の戦争と全体主義の犠牲者」と題する、悪質な意図をこめた総括的コーナー、「読み物コラム」が配置されています。
その内容をかいつまんで紹介しますと――
第一に、「日本軍も、戦争中に侵攻した地域で、捕虜となった敵国の兵士や民間人に対して、不当な殺害や虐待を行った」が、「戦争で、非武装の人々に対する殺害や虐待をいっさいおかさなかった国はなかった」と述べています。
“だから、戦争中の日本による「殺害や虐待」はあまりたいしたことではない、どっちもどっちだ”と言いたいわけです。しかし大切なことは、“どっちもどっちだ、たいしたことない”などと確認することではなく、そのような「不当な殺害や虐待」をしっかりと見すえ明らかにして(それをまったくおこなっていないのが「つくる会」歴史教科書)、戦争(帝国主義による侵略戦争と帝国主義間戦争)を二度と再び繰り返さないという決意を新たにすることではないでしょうか。
第二に、日本にたいする、アメリカによる無差別爆撃とソ連によるシベリア抑留の問題が言われています。
第三に、ナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺などの問題とスターリン支配下のソ連における多数の農民の処刑や餓死、さらに粛清や強制収容所送りの問題が取り上げられ、これら二つが「戦争とは異なる国家の犯罪として、膨大な数の犠牲者を出した」ことが言われています。
まさにその犯罪的なナチス・ドイツ(ドイツ帝国主義)やソ連(スターリン主義)と軍事同盟や条約を締結して(1940年9月の日独伊三国軍事同盟と1941年4月の日ソ中立条約)、戦前の天皇制軍事国家(日本帝国主義)は「南方進出」(東南アジア侵略)や対米戦争という、それこそ「膨大な数の犠牲者を出した国家の犯罪」に突進していったのではありませんか。「膨大な数の犠牲者を出した国家の犯罪」を犯したという意味で、ナチス・ドイツもソ連スターリン主義も天皇制軍事国家も同罪なのです。
2 無差別爆撃に最初に手を染めたナチス・ドイツ
そのうえで今回は、第二の問題のうちの、「アメリカによる無差別爆撃」の問題を取り上げて検討してみましょう。そこには、次のようにあります。
第二次世界大戦末期には、アメリカが東京大空襲をはじめとする多数の都市への無差別爆撃を行い、広島と長崎に原爆を投下した。
無差別爆撃については、これだけ、そしてここだけです。ですから、この教科書を学んだ中学生は当然、無差別爆撃というのは、第2次世界大戦の末期においてアメリカ(だけ)が日本(だけ)にたいしておこなったものという、きわめて一面的でまちがった理解をすることになります。
前回、「つくる会」歴史教科書の一つの特徴は、「事実の半分だけを語ってあとの半分をおし隠し、そうした方法で歴史の真実をねじ曲げている」と述べたのですが、ここでも、そのペテン的手口が臆面もなく使われています。
航空機によるこのような無差別爆撃は、一般に戦略爆撃と呼ばれています。その目的は、前線の相手部隊ではなく、後方の一般市民が住む都市そのものに無差別絨毯(じゅうたん)爆撃を加え、産業基盤やインフラストラクチャーを破壊して相手国の経済力=戦争遂行能力にダメージを与えるとともに、とりわけ「敵国民」を大量に殺傷することでその戦意=士気を奪うことにあります。
では、このような戦略爆撃はいつだれが始めたのでしょうか。
それは、スペイン内戦中の1937年4月26日、反乱軍のフランコ将軍を支援するドイツ空軍によるスペイン北部・バスク地方の人口7000人の町ゲルニカの爆撃にさかのぼることができます。
スペインでは1936年2月の総選挙の結果、共和主義者・社会党・共産党などの協力による人民戦線が右翼の国民戦線にたいして勝利を得て、同月、人民戦線政府が成立しました。この人民戦線政府にたいしてフランコを頭目とする軍部が反乱を起こし、内戦が始まります。反乱軍はナチス・ドイツやファシズム・イタリアの援助を受け、政府側はソ連と国際義勇軍の支援を受け、内戦は3年にわたりました。
この内戦では、軍部・右翼勢力との戦いそっちのけで労働者民衆の闘いに背後から襲いかかるスターリン主義=スペイン共産党の利敵行為(これについてはジョージ・オーウェル著『カタロニア賛歌』やケン・ローチ監督制作の1995年の映画「大地と自由」などをご覧ください)が決定的に災いして右翼反動の勝利を許し、1939年4月1日フランコ将軍の独裁体制が成立し、内戦は終結します。
1937年4月26日のゲルニカ爆撃は、この内戦のさなかのできごとでした。
この爆撃は、一方では、首都マドリード戦線で政府軍側の激しい抵抗に会った反乱軍が、攻撃目標を北部のバスク地方に変えることによって戦局の転換をはかろうとした作戦の一環であり、他方ナチス・ドイツにとっては、来るべき世界戦争遂行のための残虐な「実験」としての意味がありました。
ゲルニカ空爆は、戦闘機による無差別機銃掃射に始まり、爆撃機による最新250キロ高性能爆弾の投下と続き、最後は爆撃機による焼夷(しょうい)弾の投下がおこなわれました。3個飛行中隊・43機による、この3波・数時間の空爆で町の大部分は破壊され、一般市民の被害は死者1600人以上、負傷者900人あまりにものぼりました。
この惨劇に深い悲しみと激しい憤りを感じたスペイン人画家・ピカソがナチスとフランコにたいする強い弾劾の意思を世界中にアピールするために描いたのが大壁画「ゲルニカ」であることは、よく知られているところです。
3 日本軍による重慶爆撃は本格的な戦略爆撃
このように、無差別爆撃に最初に手を染めたのはナチス・ドイツでしたが、それを組織的・継続的に、したがって本格的に実施したのは日本軍でした。
すなわち、1937年7月7日の盧溝橋(ろこうきょう)事件をもって、戦前日本は全面的な中国侵略戦争に突入していきましたが、そのようななか、中華民国政府は日本軍の南京侵略を前にして首都を南京から内陸の漢口(湖北省武漢市)へ、さらに漢口からずっと奥地の重慶(四川省)へと遷都(1937年11月)して戦い続けます。
この結果、日本軍は、中国沿岸部とやや内陸部の主要都市をいちおう支配下におさめたものの、中国民衆と中華民国政府の抗戦意思をくじくことができず、戦況は膠着(こうちゃく)状態に陥ります。むしろ、広大な補給線の確保や占領地の維持で多大の困難に直面し、軍事動員力ももはや限界に達して、きわめて危機的な事態を迎えるにいたります。
そのようななかでとられた作戦が、海軍航空部隊を投入した首都・重慶たいする無差別空爆でした。この無差別空爆が最初におこなわれたのは1938年の2月でしたが、これはまだ威力偵察的な小規模なものでした。しかし、同年12月になるとのちの戦略爆撃の先駆けとなる本格的な爆撃が開始されます。
とくに1939年の5月3日・4日におこなわれた爆撃は、一度に8200人が死傷し、十数万人が家を失い、25万の避難民を出すという、猛烈なものでした。そのため、この爆撃は、たんに「5・3、5・4」と固有名詞で呼ばれるようになります。
その後重慶爆撃は、1941年の8月までひんぱんにおこなわれました。同年12月に日本が絶望的な対米英戦争に突入し、これにともなって海軍航空部隊も南方戦線に転進せざるをえなくなったため、重慶爆撃はここで一段落しますが、その後も1943年8月23日の最後の爆撃まで攻撃は断続的におこなわれました。その間じつに5年半です。首都にたいする無差別爆撃がこのような長期にわたったのは、第2次世界大戦においても他に例を見ません。
ある資料によれば、重慶を襲った日本の重爆撃機はのべ2400機、投下した爆弾は1万5000トン、それによる死傷者は6万人以上、うち死者は2万3600人、そして50万〜60万の重慶市民が家を失ったとのことです。
このように、ナチス・ドイツによる世界最初の無差別爆撃を、本格的な戦略爆撃として発展させたのは日本軍でした。この戦略爆撃は、ドイツ空軍によるロンドン爆撃の際にも採用され(1940年夏〜1941年春)、大戦の後半になると逆に、優勢になった米英帝国主義によって徹底的・圧倒的に行使されるようになります。それが、ハンブルク爆撃であり(43年7〜8月/死者5万人)、ドレスデン爆撃であり(1945年2月13〜14日/死者は3万5000人とも15万人とも言われる)、東京や大阪・名古屋などにたいする大空襲でした(東京大空襲は45年3月10日/死者10万人、家を失った人は百万人)。そしてそのきわめつきが広島と長崎への原爆投下です(45年8月6日・9日/原爆投下の問題については本シリーズの第5回をご覧ください)。
しかも、この無差別爆撃は戦後においても、おもにアメリカ帝国主義によって朝鮮戦争やベトナム戦争において、さらに湾岸戦争やNATO軍によるユーゴ空爆などにおいて繰り返しおこなわれてきました。そればかりではありません。「敵」の首都や大都市を核ミサイルで一瞬にして壊滅させる戦略核の軍事体系として飛躍的に「発展」させられてきたのです。
このように見てくるならば、「無差別爆撃」を語って、日本にたいするアメリカの攻撃のみを取りあげる「つくる会」教科書がどれだけ一面的・一方的な見方・描き方をしており、歴史を歪曲しているかが明らかとなります。
戦前の天皇制軍事国家によるアジア侵略戦争を“アジア解放のための戦争”と強弁する「つくる会」にとっては、重慶爆撃は南京大虐殺(1937年12月から翌春にかけて)と同様、なんとしても抹殺したい歴史的事実なのでしょう。なぜなら、5年半の長きにわたって重慶の無辜(むこ)の民の頭上に爆弾の雨を降らせ続けたという事実そのものの前に、“アジア解放のための戦争”なるかれらのファシスト的虚構はがらがらと音を立てて崩れ去ってしまうからです。
悪辣(あくらつ)なファシストデマゴギーを子どもたちに植え付けようとする「つくる会」とその教科書を絶対に許してはなりません。
第5回 ヒロシマ・ナガサキについてもたった1行!

1945年8月6日、広島に世界初の原爆が投下された。直後の死者だけでも14万人を数えた。
1 6000万以上の人々が死んだ第2次世界大戦
「つくる会」歴史教科書は、日露戦争の日本海海戦や太平洋戦争の真珠湾奇襲攻撃の「戦果」についてはやし立てる一方で、戦争の加害と被害については全然書かないか、あるいは書くにしてもまったくでたらめな数字(意図的に大きく低められた数字)をあげています。これは、シリーズの第3回・第4回でもとりあげたことですが、今回は、この点についてさらに見てみましょう。
「つくる会」歴史教科書は、第2次大戦を締めくくる言葉として、211nで次のように述べています。
日本の降伏によって第二次世界大戦は終結した。大戦全体の戦死者は2200万人、負傷者は3400万人とも推定されている。
しかし、この「大戦全体の戦死者は2200万人、負傷者は3400万人」という数字にはきわめて重大な問題があります。なぜなら、この数字には、軍人の死者数・負傷者数しか含まれていないからです。
第2次世界大戦が、第1次世界大戦を含むそれまでの戦争と決定的に違うところは、一つには、それまでの戦争が基本的に戦場に限られ戦死者もそこで戦う軍人に限られていたのに比して、国内の民間人・非戦闘員の死者・負傷者が軍人の死者・負傷者に勝るとも劣らないほどの数にのぼったことです。
したがって、この大戦における死者・負傷者について軍人の数字のみあげるならば、この戦争の真の規模、真の深刻さをまったく見誤ることになります。
第2次世界大戦で一体どれほどの人々が死んだのでしょうか。これについては、いまだ確定されていません。推定としてさまざまな数字があげられています。そこで今、軍人の死者合計を約2300万とする、ある推計にもとづいて考えてみましょう。それによれば、軍人・民間人の死者のうちわけとして次のような数字があげられています。
ソ連は1300万・700万、中国は350万・1000万、ドイツは350万・380万、ポーランドは12万・530万、フランスは25万・36万、イギリスとイギリス連邦は45万・6万、日本は170万・38万、アメリカは40万・6万、そしてイタリアは33万・8万です(戦死者の多い国順)。
ところで、ソ連の軍人・民間人を合わせた死者は2000万どころか2700〜3000万にものぼるのではないかと最近言われるようになってきていることや、日本の戦死者が一般に軍人240万・民間人70万の総計310万とされていることを考えると、上にあげられている数字は概して控えめなものであると判断できます。それでも、上の数字を加えていくと、軍人で2325万、民間人で2704万、総計5029万となります。
それにここには、このシリーズの第3回であげたような、日本のアジア侵略戦争によって直接間接に殺された朝鮮・ベトナム・インドネシア・フィリピン・インドなどアジアの民衆は含まれていません(太平洋戦争におけるアジア人民の犠牲者は約2000万人と言われています)。また、戦中にナチス・ドイツによって組織的に虐殺されたユダヤ人など約600万もの人々も含まれていません。
それらすべてを加えると、しばしば言われるように、「第2次世界大戦では軍・民あわせて6000万人以上もの人々が命を失った」と考えるのがやはり適切なのではないでしょうか。
いずれにしても、国をあげての総力戦となり、アメリカをのぞくすべての交戦国が国内的にも甚大な被害を受け、そして侵略された国々・民族がじつに膨大な犠牲を払った第2次大戦について、軍人の死傷者数しかあげない「つくる会」教科書は、事実の半分だけを語ってあとの半分をおし隠し、そうした方法で歴史の真実をねじ曲げているのです。
2 広島・長崎への原爆投下がもたらしたもの
上で、「第2次世界大戦が、第1次世界大戦を含むそれまでの戦争と決定的に違うところ」として「民間人・非戦闘員の死者・負傷者が軍人のそれに勝るとも劣らないほどの数にのぼったこと」をあげたのですが、もう一つやはり決定的に違うところがあります。
それは、米・独・日などの核開発競争のなかで原子爆弾という究極の大量破壊兵器がついにアメリカ帝国主義によって生み出されたばかりか、それが広島・長崎への投下という形で実戦使用されたことです。それによって、たった一発の核兵器が数十万の人を殺傷する時代となりました。また、全面的な(あるいは大規模な)核戦争が人類の絶滅さえ招きよせる時代の到来となったのです。したがって、第2次世界大戦を総括する場合、それがしっかりと見すえられなければなりません。
この点、「つくる会」歴史教科書はどうでしょうか。211nで次のように書いています。
8月6日、アメリカは世界最初の原子爆弾(原爆)を広島に投下した。ことここにいたっては、日本政府も終戦を急ぐほかなかった。8日、ソ連は日ソ中立条約を破って日本に宣戦布告し、翌9日、満州に侵攻してきた。また同日、アメリカは長崎にも原爆を投下した。
たったのこれだけ! 驚くべきことに、原爆による死者の数すら書いていません。真珠湾攻撃や太平洋戦争の推移、また“大東亜戦争はアジアの解放のため”なるデタラメについては本文・コラムで、また写真を何枚も使って長々と書いているのに(204〜207n/これについては本シリーズの第2回をご覧ください)、原爆についてはここでそれぞれたった1行ずつ、あと214nで「アメリカが……広島と長崎に原爆を投下した」と1行弱あるだけなのです。
2発の原爆は、わずか10秒間で広島・長崎の2都市を壊滅させました。被爆直後の死者は広島で14万人、長崎で7万人。その後死者は一般人約32万人、軍人約4万人、うち朝鮮人・中国人約4万人。その6割以上が子ども・女性・高齢者であり、死亡を確認できない人が4割と言われています。多くの人びとは熱線に焼かれ生存の痕跡(こんせき)さえとどめていません。
にもかかわらず、「つくる会」歴史教科書は、一瞬のうちに灰となった地獄のような光景も、その後の半世紀にわたる被爆者の苦しみについても何ひとつ触れようとはしないのです。
広島の原爆の碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」とあります。ここの過ちというのは、言うまでもなく戦争のことです。中国侵略をもって始めた戦争が、結局は広島・長崎への原爆投下という形で自分に返ってきたという「15年戦争」全体にたいする深い反省の気持ち――それが、この短い言葉にはこめられています。
この血文字をふみにじり、核時代の現代に、「勝つ高揚感を一番感じるのは戦争」(「つくる会」教科書推進のファシスト石原都知事の言葉 『週刊新潮』05年2月3日号)とあおり、教え込もうとするのが「つくる会」教科書なのです。
第4回 日本海海戦に小踊りし、死者には口をつぐむ

天皇制国家の厳しい弾圧のもと、『平民新聞』は果敢に日露戦争反対の論陣を張った。
1 日本海海戦は「歴史の名場面」か?
「つくる会」歴史教科書は、戦前日本軍の「戦果」については嬉嬉(きき)として描き出す一方で、その被害については、ほとんど口をつぐんでいます。
この点、太平洋戦争における真珠湾攻撃についてはこのシリーズの第1回で具体的にとりあげましたので、ここでは、日露戦争(1904〜1905年)における日本海海戦(05年5月)について見てみましょう。
これについて「つくる会」教科書は、本文において、「これ〔ロシア・バルチック艦隊〕をむかえ撃った日本の連合艦隊は、東郷平八郎司令長官の指揮のもと、兵員の高い士気とたくみな戦術でバルチック艦隊を全滅させ、世界の海戦史に残る驚異的な勝利を収めた」(167n)と称賛するばかりか、それではまだまだ足りないとばかりに、さらに169nまるまる1ページを使って「歴史の名場面 日本海海戦」として絵入りで事細かに述べています。以下、その一部を引用します。
38隻のロシアの大艦隊が、2列で日本海を北上してきた。日本全艦隊は、6000mまで近づいたところで一気に左に回転し、敵の進路に立ちふさがった。日本艦隊は、ロシアの司令長官が乗る旗艦スワロフをはじめ、先頭を行く戦艦に集中攻撃を加えた。
勝負は40分で決まった。旗艦スワロフは火柱をあげ、司令塔はふっとんだ。続いて、4隻の戦艦が撃沈された。ロシアの司令長官は負傷し、のち降伏したのである。
この海戦を日本の勝利に導いたのは、砲撃の命中率のよさと、技師の下瀬雅允(まさちか)が発明した高性能火薬にあるといわれる。
夕刻から翌日にかけて、日本は追撃戦に入り、2日間で完璧(かんぺき)な勝利を得た。38隻のロシア艦隊のうち、撃沈16隻、捕獲6隻、逃亡後抑留されたもの6隻、なんとかロシアのウラジオストク港に逃げこんだ船は3隻だけだった。いっぽう、日本側は水雷艇3隻が沈んだだけだった。世界の海戦史上、これほど完全な勝利を収めた例はなかった。
そもそも、太平洋戦争が日本帝国主義とアメリカ帝国主義との間の、アジア・太平洋全域をめぐる相互に強盗的・略奪的戦争であったと同様に、日露戦争とは日本帝国主義とロシア帝国主義との間の、中国東北部と朝鮮をめぐる相互に強盗的・略奪的戦争でした。
帝国主義(資本主義の最高の発展段階/独占的な大企業・大銀行とその政治的代表者による支配体制)によるこのような戦争は、各帝国主義にとっては延命をかけた死活的なものですが、労働者民衆にとっては文字どおり「百害あって一利なし」です。そのような不正義の戦争における勝った負けたを「歴史の名場面」として学ばされるのでは、たまったものではありません。
2 戦死者8万8000人の大戦争
しかも、問題は、このように日本海海戦を「歴史の名場面」として描き出す一方で、世界最初の帝国主義戦争である日露戦争が一体どれほどの死傷者を出したかについてまったく述べていないことです。
そのような数字がまったくあげられず、大々的にとりあげられた日本海海戦の記述において「日本側は水雷艇3隻が沈んだだけだった」と聞けば、日露戦争は、日本側にとってはきわめて損害の少ない戦争であったかのようなイメージをもってしまうのが当然でしょう。しかし、これは事実とはまったく違います。
日露戦争の日本側死傷者は約38万人、うち戦死者は約8万8000人(戦死者のうちの病死者は約2万8000人)です。日清戦争(1894〜1895年)が死傷者約1万3000人(戦死者数百人)ですから、日露戦争が当時の日本にとってどれだけ被害甚大な戦争であったかよくわかります。もちろん、このような大戦争は日本の歴史上初めてのことでした。
日露戦争がこのような大戦争であり、それによって国民生活がきわめて深刻な影響を受けたからこそ、政府の圧倒的な報道管制と世論誘導、徹底した反戦運動・社会主義運動の取り締まりにもかかわらず、歌人・与謝野晶子によって「君死にたまふことなかれ」の詩が読まれ、また幸徳秋水や堺利彦らによって週刊『平民新聞』が発刊され(1903年11月〜1905年1月)、戦時下の反戦闘争が闘われたのでした。しかし、「つくる会」歴史教科書にはこのようなことも一切出てきません。
戦前日本軍の「戦果」については感激と賞賛をこめて描き出す一方で、その被害については一切口を閉ざす、あるいは戦争(帝国主義戦争)をすばらしいものとして生き生きと描き出す一方でその悲惨さについては極力押し黙る――ここに「つくる会」歴史教科書のきわめて反動的な本質がはっきりと示されています。私たちが「つくる会」教科書を、「戦争を賛美する教科書」あるいは「子どもたちにお国のために命を投げ出すことを教え込む教科書」と言うのはそのためです。
第3回 2000万人の虐殺が「アジアの解放」?!

侵略に抵抗する中国人を銃剣で刺殺する日本兵。
日本の侵略で中国をはじめ約2000万人のアジア民衆が虐殺された。
1 「宣戦の詔書」「大東亜共同宣言」の思想と立場そのもの
「つくる会」の正式名称は「新しい歴史教科書をつくる会」。そして、その歴史教科書には、「新しい歴史教科書」という名前がつけられています。しかし、そこで展開されている歴史観は、なんら新しいものでありません。
この点を今回、もう少し検討してみましょう。
「つくる会」歴史教科書は、前回も指摘したように、太平洋戦争を平然と「大東亜戦争」と呼び、それが「自存自衛のための戦争」であり「アジア解放のための戦争」であったと強調しています。
こんな考え方が新しいのでしょうか。いいえ、新しいどころか古色蒼然(こしょくそうぜん とても古いこと)、「宣戦の詔書」や「大東亜共同宣言」に書いてあることそのままです。
「宣戦の詔書」とは「天皇による宣戦布告の公式文書」という意味。太平洋戦争開戦日の1941年12月8日に臨時ニュースとして流されました。
「大東亜共同宣言」というのは、敗色が濃くなった戦前日本帝国主義がアジアの傀儡(かいらい)政権をつなぎとめるために東京で開催した大東亜会議(1943年11月)で発せられたものです。ちなみに、この宣言文については、傀儡政権の代表者にさえ直前の2週間前にようやく知らされ、出された修正意見は日本側によってことごとく拒絶され、元の文面のまま「全会一致」で採択されました。
まず、「宣戦の詔書」から見て見ましょう。文章は、読みやすさのため現代文に改めています。
……重慶に残存する中華民国の残存政権は、米英の庇護を頼みにして日本との兄弟げんかを改めようとせず、米英両国はこの残存政権を支援して東アジアの争乱を助長し、平和の美名に隠れて東洋制覇の野望をたくましくしている。そればかりか、同盟国を誘って日本周辺において軍備を増強してわれわれに挑戦し、さらに日本の平和的通商にあらゆる妨害を加え、ついに経済断交にまであえておよび、日本の生存に重大な脅威を与えている。私〔天皇〕は、政府をして事態を平和のうちに回復させようと長い間じっと我慢を重ねてきたが、彼らは少しも譲る精神がなく、いたずらに時局の解決を遅らせて、その間に経済上軍事上の脅威をますます増大させてわれわれを屈服させようとした。このように推移していけば、東アジアの安定に関する日本の積年の努力はことごとく水の泡となり、日本の存立もまさにきわめて危機的な事態に直面することになる。ことここにいたって、日本は今や自存自衛のため決然と立って一切の障害を破砕する以外になくなった。……
要するに、“中国やアメリカ・イギリスが悪いので、日本は長い間がまんしてきたが、ついに自存自衛の戦争に立つしかなくなった”と言っているわけです。
次に、「大東亜共同宣言」について見てみましょう。上と同じように現代文に改めています。
……米英は自国の繁栄のために他国家・他民族を抑圧し、とくに東アジアに対してはあくことなき侵略搾取をおこない、東アジア隷属化の野望をたくましくし、ついに東アジアの安定を根底から覆そうとした。大東亜戦争の原因はここにある。
東アジアの各国は、ともに提携して大東亜戦争を完遂し、東アジアを米英の桎梏から解放して自存自衞をまっとうし、以下の綱領にもとづき東アジアの建設をおこない、そのことによって世界平和の確立に寄与しようと考える。……
つまり、“大東亜戦争の目的は米英からのアジアの解放と自存自衞である”と言っているわけです。
ちなみに、「大東亜共同宣言」を発した大東亜会議について、「つくる会」教科書は206ページで、1ページの3分の1を使って東条英機(当時首相)を中心とする写真を掲載し、さらに会議に参加した日本軍の傀儡「自由インド仮政府」のチャンドラ・ボースの写真も掲載しています。このページの本文で、「アジアに広がる独立への希望」というタイトルのもとに「日本の緒戦の勝利は、東南アジアやインドの人々に独立への夢と希望を育んだ」と書いていることについては、前回指摘したとおりです。
2 日本軍の「アジア解放」は侵略と虐殺
日清・日露戦争以来の朝鮮・中国への侵略と植民地領有の上に立って1931年9月の柳条湖事件(いわゆる満州事変)以降、中国への本格的な侵略戦争を開始していた日本が「自存自衛」を語るなどというのは、うそ八百そのものです。
では、「アジアの解放」というのはどうでしょうか。
大東亜会議に参加した諸国(ビルマ、満州、中華民国南京政府、タイ、フィリピン、自由インド仮政府)の“独立”なるものはまったくの名目にすぎず,実際には,現地の日本軍がその実権を握っていました。それに、「アジアの解放」と言いつつ、当時日本の植民地だった朝鮮を、形ばかりにしろ独立させることもしなかったではありませんか。
日本の政策上の最重要目的は、戦争遂行のための軍需資源の獲得でした。そのため、日本による資源の掠奪、軍事目的の工事への現地の人々の強制的動員が容赦なくおこなわれました。さらに民族文化の無視抹殺、占領政策に少しでも抵抗する人々にたいする苛酷な拷問と処刑――これが大東亜共栄圏の美名のもとにおける現実でした。
そもそも、太平洋戦争におけるアジア人民の犠牲者は約2000万人にものぼります。そのうちわけは、中国約1000万人、朝鮮約20万人、ベトナム約200万人(大部分は餓死)、インドネシア約200万人、フィリピン約100万人、インド約350万人(大部分はベンガルの餓死者)、シンガポール約8万人、ビルマ約5万人と言われています。日本人も約310万人が死にました。このどこが「アジアの解放」なのでしょうか。恥知らずにもほどがあります。
中国やアジアへの侵略戦争を、戦中さながらに「自存自衛のため」とか「アジア解放ため」とか言いなす「つくる会」教科書は絶対に使わせてはなりません。
第2回 戦前日本の侵略・戦争・植民地支配を限りなく正当化・美化

1931年9月の柳条湖事件(いわゆる満州事変)―1932年3月のニセ「満州国」のデッチあげ以来、
中国東北部への侵略を開始していた日本軍は、1937年7月7日夜半、
北京郊外・廬溝橋(写真)付近での
夜間演習の最中に「中国軍による発砲があった」とし、これを口実に全面的な中国侵略戦争に突入していった。
1 「自国の安全保障」で侵略・戦争・植民地支配を正当化
「つくる会」歴史教科書は、戦前日本帝国主義による侵略・戦争と植民地支配の一切を正当化しています。
たとえば1904〜1905年の日露戦争(日本とロシアによる朝鮮および中国東北部をめぐる帝国主義的強盗戦争)については、次のように言っています。
「朝鮮半島が、東方に勢力を拡大しつつあるロシアの支配下に入れば、日本を攻撃する格好の基地となり、島国の日本は、自国の防衛が困難になる」(163n)、「日露戦争は、日本の生き残りをかけた戦争だった。日本はこれに勝利して、自国の安全保障を確立した」(168n)。
韓国併合(1910年)についても、「日本政府は、日本の安全と満州の権益を防衛するために、韓国の併合が必要であると考えた」(170n)と書いています。
ところで、この「日本政府は……と考えた」という文章ですが、これは“そう当時の日本政府は考えたが、それは間違いだった”という意味ではありません。前回紹介した「過去の人がどう考え、どう悩み、問題をどう乗り越えてきたのか……を学ぶ」(6n)という
「つくる会」派の人々の歴史観(歴史学習の立場)から当然のことですが、“そう当時の日本政府は考えたし、現在の私たちはそれを共有することが正しい”という立場で言われているのです。
つくる会派の人々、そしてその歴史教科書は、戦前日本の軍部や政治家同様、手前勝手な地政学的口実をつくって、日本を防衛するためには朝鮮を日本の支配下に組み入れるしかなかった、だから朝鮮を侵略し植民地化したのは正しかったと強弁しているのです。
そこには、歴史を検証する時に本来求められる、侵略された側に身をおいてその立場から歴史を見直し反省もするという態度は、ひとかけらもありません。
逆に、日本が生き残るためだったら朝鮮人民や中国人民の意思など頭から踏みにじってかまわないととされているのです。
2 過酷な植民地支配を“近代化を助けた”と吹聴
しかも、他国への侵略をこのように居直る一方で、戦前日本帝国主義が朝鮮や中国に対しておこなったことは欧米列強(米欧の帝国主義)による侵略や植民地支配とは違って、アジアにすばらしく良いことをしたかのように描いています。
たとえば、朝鮮・台湾への日本の過酷な植民地支配を“近代化を助けた”などと美化するばかりか、日露戦争で勝利し、その結果として朝鮮を植民地化し、中国に侵略していったことが、逆になんと「世界を変えた日本の勝利」(167n・見出し)だとか「植民地にされていた民族に、独立への希望をあたえた」(168n)などと正反対に描かれ、最大限に礼賛されています。
その後の中国侵略戦争と日本帝国主義による傀儡(かいらい)「満州国」デッチあげ(1932年)についても、「満州国は、五族協和、王道楽土建設のスローガンのもと、日本の重工業の進出などにより急激な経済成長をとげ、中国人などの著しい人口の流入もあった」(197n)と、まるで理想の国を建設したかのような大ウソを公然と流しています。
3 米英との帝国主義的強盗戦争を「アジアの解放」と強弁
そのきわめつきは、太平洋戦争(1941〜1945年)についての記述です。ここでは、戦中同様の「大東亜戦争」(204n)という言葉が使われています。
「大東亜戦争」という言葉は、戦前日本帝国主義が米英帝国主義とアジア・太平洋をめぐる強盗戦争をする際に、全国民をこの不正義きわまりない戦争に動員するため、“日本の自存自衛がかかっているばかりか、米欧帝国主義から全東アジアを解放するための偉大な戦争”という意味をこめて使ったものです。
「つくる会」歴史教科書は、まさにその立場に立っています。申しわけ程度に「この戦争は、戦場となったアジア諸地域の人々に大きな損害と苦しみを与えた。とくに中国の兵士や民衆には、日本軍の侵攻により多数の犠牲者が出た」(206n)などと書きながらも、本文でもコラムでも写真でも“日本軍=アジアの解放軍”という印象が圧倒的に醸(かも)し出されるように編集されています。
すなわち、「アジアに広がる独立への希望」(206n・見出し)というところでは、「日本の緒戦の勝利は、東南アジアやインドの人々に独立の夢と勇気を育んだ」と書き、次ページの二つのコラムでは、それぞれ「アジアの人々を奮い立たせた日本の行動」と「日本を解放軍として迎えたインドネシアの人々」というタイトルのもとに合わせて半ページ以上も使って書いています。この二つ目のコラムの中には、「日本軍がオランダ軍を破り、進駐すると、人々は道端に集まり、歓呼の声をあげてむかえた。日本はオランダを追放してくれた解放軍だった」とまで書いています。
同時に、この戦争が日本の労働者人民にもどれだけ悲惨きわまる犠牲を強制したことも極力薄められ、それどころか美化・称賛されています。たとえば、「物的にもあらゆるものが不足し……生活物資は窮乏をきわめた。しかし、このような困難の中、多くの国民はよく働き、よく戦った。それは戦争の勝利を願っての行動であった」(209n)などと。
このように、軍部をはじめ当時の政府・国家指導者たちの不正義の戦争とその戦争動員のためのイデオロギーをまったく正しいとし、それをそのまま若い中学生の頭にたたき込もうとしているのが、「つくる会」歴史教科書です。絶対に許すことはできません。
第1回 「大本営発表」さながらに「戦意発揚」めざす

徴兵制のあった戦前日本では、この赤紙(召集令状)で青年男子は、
天皇制国家のおこなう侵略戦争や帝国主義間戦争に動員されていった。
1 戦中の国史教科書そっくりの「つくる会」歴史教科書
まず、太平洋戦争(これも「つくる会」教科書では「大東亜戦争」)についての「つくる会」歴史教科書の記述を見てください。次のように書いてあります。
1941(昭和16)年12月8日、日本海軍はアメリカのハワイにある真珠湾基地を空襲し、アメリカ太平洋艦隊に全滅に近い打撃をあたえた。この作戦は、アメリカの主力艦隊を撃破して、太平洋の制海権を獲得することをめざしたものだった。同日、日本陸軍はマレー半島に上陸し、イギリス軍を撃破しつつシンガポールをめざして進んだ。
日本は米英に宣戦布告し、この戦争は「自存自衛」のための戦争であると宣言した。日本政府は、この戦争を大東亜戦争と命名した。……
日本の緒戦の勝利はめざましかった。マレー半島に上陸した日本軍は、わずか70日で半島南端のシンガポールにある英軍の要塞(ようさい)を陥落させた。連合国側の準備が整わなかったこともあり、たちまちのうちに日本は広大な東南アジアの全域を占領した。(204〜205n)
次に、戦争中の国定教科書『初等科国史』下(1943年3月発行)の該当部分をあげてみますので比べてみてください。
昭和十六年十二月八日、しのびにしのんで来たわが国は、決然としてたちあがりました。忠誠無比の皇軍は、陸海ともどもに、ハワイ・マライ・フィリピンをめざして、一せいに進攻を開始しました。勇ましい海の荒鷲(あらわし)が、御国の命を翼にかけて、やにはに真珠湾をおそひました。水づく屍(かばね)と覚悟をきめた特別攻撃隊も、敵艦めがけてせまりました。空と海からする、わが猛烈な攻撃は、米国太平洋艦隊の主力を、もののみごとに撃滅しました。この日、米・英に対する宣戦の大詔がくだり、一億の心は、打つて一丸となりました。
……ほとんど同時に、英国の東洋艦隊は、マライ沖のもくづと消え、続いて、かれが、百年の間、東亜侵略の出城とした香港も、草むす屍とふるひたつわが皇軍の精鋭によつて、たちまち攻略されました。
一目瞭然とはこのこと。両者がきわめて似ていることがわかります。「つくる会」教科書は、戦中の国定教科書や大本営発表の軍報さながらの内容です。それは、「つくる会」教科書が新たな戦争への国民の動員を狙って戦意発揚の立場から書かれているからにほかなりません。
2 支配階級・権力者の立場からの得手勝手な歴史観
「つくる会」歴史教科書は冒頭、「歴史を学ぶとは」と設問し、次のように述べています。
歴史を学ぶとは、過去のできごとを知ることだと考えている人が多いかもしれないが、これは必ずしも正しくない。歴史を学ぶのは、過去におこったことの中で、過去の人がどう考え、どう悩み、問題をどう乗り越えてきたのか、つまり過去の人はどんな風に生きていたのかを学ぶことだ、といったほうがよい。(6n)
しかし、「過去の人がどう考え、どう悩み、問題をどう乗り越えてきたのか」とは言っても、その「過去の人」には、たとえば太平洋戦争・第2次世界大戦を指導した軍部など支配階級に属する人々もいれば、その戦争に必死に反対し抵抗した労働者民衆もいます。それを一口に「過去の人……」などとくくれるわけがありません。
「つくる会」が言う「過去の人」が一体だれを意味しているかはじつは、上に引用した歴史教科書の文章からはっきりとわかります。農民や労働者などの労働者民衆のことではなく、戦争を指導した支配階級・権力者のことを指しているのです。
「つくる会」の人々によれば、中国侵略戦争から第2次世界大戦にいたるいわゆる「15年戦争」の歴史についても、この戦争が「三光作戦」(殺し尽くし、奪い尽くし、焼き尽くす)など朝鮮・中国・アジア人民をどれだけ虐殺し地獄にたたき込むものであったかを教える必要は一切ない。また同時に、この戦争が日本の労働者民衆にどれほどの苦しみをもたらしたかを教える必要も一切ない。それは「自虐史観」だと言うのです。
軍部をはじめ当時の国家指導者たちは、日本の帝国主義(独占的な大企業・大銀行とその政治的代表者による支配体制)の生き残りをかけて無謀な戦争に突入していきました。そして、その戦争に全国民を動員していくために、「『自存自衛』ノ為」(太平洋戦争開戦の詔書)だとか「東亜の一大解放の為め」(1943年「大東亜共同宣言」)だとかと強弁し合理化しました。それをそのまま教えるのが正しいというのが、「つくる会」の主張であり、それを100パーセント実践しているのが、「つくる会」歴史教科書なのです。
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