教育勅語と「神の国」
森首相によると「教育勅語」の理念を教え、「日本は天皇中心の神の国であることを承知」させれば、今の深刻な少年問題、教育問題は解決するということらしい。冗談ではありません。教育勅語には「命の大切さ」を教えるものなどひとかけらもありません。教育勅語に語られていることは、「天皇のために死ね」ということに尽きます。
教育勅語によって教育されたこどもたちはどうなったのか?「天皇陛下のため」といって二千万人もの中国・アジアの人々の命を奪い、自らも命を失っていきました。この歴史上かつてない惨劇をひきおこした教育勅語が、戦後に完全に否定され、国会でも「排除決議」があげられたのはあまりにも当然です。
森首相個人の考えではない
教育勅語を持ち上げたり、「天皇中心の神の国」などと言ったりするのは森首相個人の「性格の軽さ」とか「時代錯誤」などといって見過ごせることではありません。「教育勅語」あるいは「天皇を中心とする戦前の国家・教育体制」を「すばらしいもの」「本来の日本のあるべき姿」と思っているのは森首相だけではなく、実は大半の自民党政治家の本音なのです(保守党、自由党なども同じ)。森発言を「批判」している民主党も多かれ少なかれそうした傾向をもつ議員を多く含んでいます(たとえば羽田幹事長らも天皇中心国家をめざす神道政治連盟の会員だった)。
自民党と文部省の教育改革方針は、基本的には教育勅語にもとづく戦前の教育体制にどれだけ近づけていくかにあるのです。彼らが「日の丸・君が代」をこどもと教師に強制するために異常な執念とエネルギーを注いできた(法律まで作った!)のはそのためです。次に彼らがめざしているのは「宗教的権威」つまり「日本の歴史と伝統を引き継ぐ天皇」を敬うことを強制することです。だから少年事件にかこつけて「宗教心や人間を超越した権威を敬う心を養うことが大事」などとしきりに強調しているのです。
ようするに森首相ら自民党・文部省がめざす「理想の教育」とは、すべてのこどもが「日本は天皇中心の神の国」であることを「誇り」とし、「日の丸」に敬礼し、「君が代」を大声で歌うような状態にすることです。そして「お国のためならいつでも死にます」という人間をつくることです。こんな教育をいったい誰が望んでいるでしょうか。まっぴらごめんです。
森首相を代表とする自民党は、21世紀を迎えようとする今このときに、戦前の教育勅語とか天皇をふりかざすことしかできないというどうしようもない姿をさらけだしています。こんな政党に未来はないし、こどもたちの未来をたくすことなど絶対にできません。こんな自民党といっしょになって教育改革をやるという公明党も許せません。
道徳を語る自民党政治家がやっている「命を奪う政治」
教育勅語で「命の大切さ」などの「道徳」をこどもに説教しようという自民党。彼らの「道徳心」がどのようなものかは、彼らがやってきた政治をみればわかります。
愛知の老婦人を刺殺した少年は、「老人は先がないから殺してもいい」と言いました。「老人だから殺してもいい」という考え方、価値観はいったいどこから生まれてきたのか。それは自民党―自公がすすめてきた高齢者切り捨ての政治から生まれてきたのです。「老人福祉は枯れ木に水をやるようなもの」(中曽根元首相の言)というのが自民党―自公の基本姿勢です。高齢者の少ない年金からも保険料をむしりとり、福祉・介護を金目当ての業者に丸投げした介護保険は、高齢者切り捨て政策の最たるものです。「老人は早く死ねというのが政府の方針なのか!」という高齢者の怒りの声が介護保険実施後、全国に渦巻いています。
お年寄りから介護を奪い、命を奪うような政治をすすめる自民―自公に「道徳」など口にする資格はないのです。
自公の「命を奪う政治」は、働く者にも襲いかかっています。IT革命とか、企業競争力の強化などと称してリストラを推進する政策も進め、働く者の生活を破壊し、家庭を崩壊させ自殺者の増大をもたらしています。
もっとも多くの命を奪うものは戦争をおいてはありません。ところが自公は中東やユーゴスラビアなどでの戦争を支持し、安保を強化し、沖縄に新たな基地を押しつけ、憲法も変えて、せっせと「戦争ができる国」をめざしているのです。
こうした自公の福祉切り捨て、リストラと戦争の「命を奪う政治」の先頭に立っているのが石原知事です。
オウム、ハイテク兵器戦争、そしてリストラ・・・
今の十七歳の少年は、バブル時代に幼児期を過ごし、小学校に上がる頃にバブル崩壊を迎え、思春期を迎えようとする95年に阪神大震災とオウム真理教事件の衝撃を受けています。
世界ではハイテク兵器で「テレビゲームのように」多くの人々の命をいとも簡単に奪う戦争が、イラクやユーゴスラビアなどでくり返されてきました(森首相は「テレビゲームの悪影響」などと言いますが、「ゲーム感覚」で何千何万もの人々を実際に殺した戦争を「国際貢献」などと言って支持し、支援してきたのはほかならぬ森氏ら自民党、公明党らではなかったか)。
こうした世界を見せつけられながら彼らは成長し、中学・高校へと進んだのです。そして彼らが将来のことを考えなくてはならなくなった10代の半ば以降、猛烈な勢いを増してきたのがリストラ・解雇の嵐でした。いまやリストラなどによる40―50代男性の自殺は年間1万人を超え、「毎日32人の自死遺児が生まれている計算(交通遺児の数をも上回る)」になるということです。
そしてこの40―50代世代のこどもである10代から20代前半の青少年たちは、10人に1人以上が職に就けない状況に置かれています。こうしたなかで家庭崩壊も急速に進行してきました。
過酷な生存競争に投げ込まれたこどもたち
競争に敗れた者には「絶望と死」しかないという残酷きわまりない現実が、こどもたちと親たちをとてつもない不安に陥れ、生き残るには他人をけ落として勝つしかないという過酷な競争の世界に追い込んでいます。
こうして多くのこどもたちが人間的な豊かな感性を養う場も時間も与えられず、偏差値でがんじがらめにされてしまっていっているのです。
しかも今では「学力第一主義はよくない」といい、日常の言動や人間関係までがランク付けされ、こどもたちの、心の中まで点数がつけられるようになってしまいました。こんな状況では、こどもたちは先生にもまわりの友だちにも本音を語ることができません。こどもたちの心は閉ざされていくばかりです。
最近のこどもはすぐ「キレる」などと言われます。しかし今のこどもたちのように日常的な緊張と高ストレス状態に置かれたなら、その幼い、繊細な神経がすぐに「キレ」てしまうのも当然ではないでしょうか。
こうした競争と管理の中に置かれてきたこどもたちの心は「勝者」「敗者」にかかわりなく傷つき、すさんだものにならざるをえません。
大人の責任を放棄した厳罰主義では何も解決しない
いじめ、自殺、不登校、学級崩壊、そして殺人にまでいたった少年事件、これらすべては、こどもたちを極限状態に追いやってきた現在の日本の社会そのものと、競争と管理の教育によって引き起こされたものです。こどもたちを追いつめるような社会を作ってきた(あるいは許してきた)のはわたしたち大人の責任です。わたしたち大人が自分たちの責任を放り出して、十代の少年にすべての罪をなすりつけることはできません。
今おきている少年事件の問題は、学校教育や各家庭だけでは解決できない問題です。必要なのは、いまの社会のあり方を、大人もこどももいっしょになって真剣に問い直し、地域、学校、職場などでみんなで話し合える場を作り、そしてみんなで今の社会のあり方を変えるために行動していくことです。こうした方向にしか、解決の道はないと思います。こうした方向以外の教育改革論議は以下にみるように、とんでもないものになるだけです。
|