10月29日付の朝日新聞に、現職幹部自衛官がどう考えているか聞くという、座談会形式の記事がありました。そこで「間違って市民を殺すかも知れない」と言っています。「誤爆はやむを得ないんですよ」「いやなら国外に出るしかない」という言い方をしています。自分たちが主役で、そこにいて犠牲になる人たちは従という考えに、危惧を感じます。こういう考え方で自衛隊が出ていくとすると、恐ろしいことです。
同じ日の朝日新聞に、パキスタンの新聞「ニューズ」の社説が載っていました。「米国防総省の高官は、空爆作戦は計画通り進んでいると主張しているが、これは正しくない」と。米軍は、市民の犠牲がたくさん出ているのに、これを否定し、嘘をデッチあげていると厳しく批判しています。貧しいアフガニスタンの人びとを、ますます苦しめていることを、アメリカの人びとは知っているのだろうかと、注意を喚起しています。米政府の言うことを信じて、こういう現実を容認していることを批判しています。
しかし、これは明日の私たち自身の姿ではないのか。武器を使わない後方支援だと言うけれど、朝日新聞に載ったあの理屈で自衛隊が動いていった場合、何をやっているのか知らないままに、「テロ対策」だとか「平和貢献」だとかいうことで見逃しかねません。そうならないためにも、アフガン・中東の現地に暮らす人たちから見たら、どういうことなのか、理解することが重要です。
大国の権益守るために作られた石油システム
「中東」という世界は、大国の権益のために、きわめて政治的に作りだされたものです。英語で「ミドルイースト」と言いますが、この言葉は第二次大戦へのイギリスの参戦にともない、1939年に、英軍の中東司令部というものができて、そこで初めて用いられた言葉です。それまでは近東とか中近東とか、あるいは西アジアという言葉で呼ばれていたものが、「中東」という言葉にぬりかえられたのです。そして戦後、「中東」という単位で、あの地域が動いていくことになりました。
中東の特徴をいくつか挙げてみましょう。
第一に、中東といえば石油です。しかも石油を実際に稼働させるシステムとしての「中東」ということです。油田と原油を積出し港沿岸へとはるばる送るパイプライン、それをタンカーで運び出す海上航路などの搬送のシステム、そしてそれらを安全に運営するための安全保障、つまり軍事基地。これらが一体化して、イラク、イラン、アラビア半島を中心に、石油の稼働システムの広がりとして「中東」が作られました。
50年代早々に稼働しだしたシステムは地中海へと収斂し、原油は当時すべて戦後復興のヨーロッパに運ばれました。現在では、インド洋の東の日本へ大量に送られています。 アメリカの分身としてイスラエルが作られる
第二に、中東の重要な特徴は、ここに米国の分身=イスラエルという国家があるということです。ヨーロッパにおけるユダヤ人大虐殺の末に、連合国側は絶滅収容所で生き残った人びとの多くを、ヨーロッパの彼らの故郷に残さないで、そのまま難民として中東の一角に収容することにしました。イスラエルは、これまでユダヤ人の解放の地とみなされてきましたが、実はヨーロッパ難民収容の地として設けられたのです。
同時にそのイスラエルは、石油搬送システムの重要な一角をしめる位置にある。そこにはハイファという港があります。そこはパイプラインの終点であり、ヨーロッパへの石油の搬送地、そして東地中海に展開する大戦後のアメリカ第六艦隊の寄港地です。中東で何か起これば、ここは米軍の大きな拠点基地の一つとなります。
47年、米国主導で賛成票が取りまとめられ、英植民地統治終了後のパレスチナの地でのイスラエル建国を国連総会が承認しました。イスラエルという国は、「ユダヤ人」と呼ばれる人びとが主体的に作った国というより、徹頭徹尾、欧米大国の力が物をいって作り出された、きわめて人工的な産物と言えます。
シオニズム国家により「中東」は危機の世界に
第三に、中東の特徴は、シオニズム国家イスラエルが作られたことで、それが中東システムの危機管理装置として、絶えず中東民衆の生活を脅かす事態を作り出していることです。「中東」は、そこに住む人びとにとっては、イスラエルが存在することで一貫して危機の世界として現れたのです。
シオニズムとは、ユダヤ人国家を作るという思想運動のことでした。ユダヤ人国家・イスラエルは、ユダヤ教徒という宗教上の資格を市民の絶対的な条件としており、ユダヤ教徒のみによる国家として作られました。その場所に住んでいたアラブ住民のうち、ユダヤ教徒を除くイスラーム教徒やキリスト教徒のほぼ全部が排除されました。
イスラーム世界は、イスラーム教徒が圧倒的多数ですが、実は他の宗教の人びとをふくむ世界でした。そこに宗教の違いで人を排除するシオニズム国家ができたことは、人びとの生存の危機を生み出し、非常な不安定要因となりました。
こういうイスラエルを、アメリカが絶対的に保護し、支援することで、石油の富を確保している。それで中東全体が、宗教の違いによって住民の生活危機が作り出される世界にされてしまったのです。「中東」という何重にも人工的なシステムを作りあげたアメリカに対する怒り、そのパートナー・イスラエルに対する怒りがあり、それら中東の危機の最大の元凶を撃つという論理は、人びとの共感を呼ぶというわけです。 あいつぐ戦争と内戦に逃げまどう民衆の苦難
第四の中東の特徴は、第一、第二、第三の要因とからんで、冷戦体制のもとで、東西の大国の角逐の場だったことです。
石油地帯のすぐ北は、ソ連です。欧米の大国が作りあげた「中東」という地域は、第二次大戦後、石油という戦略資源をめぐって、冷戦がもっとも激しくぶつかる修羅場となりました。イスラエルを米国が支えることで、絶えず戦争が起こり、内乱が起こる。人びとは絶えず戦闘現場の中で暮らし、逃げまどうことを余儀なくされる。こういう生活破壊の状態を常に背負う歴史が続いたのです。
一番大きかったのが、四次にわたる中東戦争。48年、イスラエルができた時に、まず戦争が起こりました。第二回目は、56年のスエズ戦争。スエズ運河をめぐる国際介入の戦争でした。三番目は、67年、イスラエルとアラブ諸国との間で、文字通り中東全体の変革か現状維持かをめぐって、第三次中東戦争が起こった。そしてアラブ・イスラエル国家間戦争幕引きとしての第四次中東戦争が、73年に起きました。
その後は地域紛争として、いろいろな内戦が起きました。イスラエルの北側のPLO難民ゲリラ基地のあるレバノンには、絶えずイスラエル、アメリカ、アラブ産油国が介入し、10有余年にわたる内戦が展開されました。ここにあったパレスチナ難民キャンプが、大きな意味を持っていて、難民キャンプからアラブ世界を変えていこうという、いわばアラブ貧民解放運動が起きました。それは国際介入によって、人びとも生活圏もめちゃくちゃにされました。
とくに82年にイスラエルが、レバノンに軍事侵略し、一時レバノンの4分の3を占拠して、ここで大きな力を持っていたPLO(パレスチナ解放機構)を壊滅しようと企てた。レバノンの国は、その時の痛手からいまだに立ち直れず、ここにいたパレスチナ難民のアラブ民主化と故郷帰還との抱き合わせの夢は完全に破綻しました。
一方79年、石油の富にあぐらをかいたペルシャ王制をイスラーム教徒民衆が打倒するイラン革命が起きました。イラン王政崩壊は、中東の現状のシステムの一角を大きく壊すことになる。そこで直ちに、イラン・イラク戦争という、イラクを交戦国におしたてアメリカとアラブ産油国が全面支援した、イラン革命つぶしの国際的反革命戦争が起きました。
一方で、ソ連も、イランの隣のアフガニスタンに進駐して民衆を弾圧しました。ソ連侵攻、それに続く内乱で、今日までのアフガンの難民状態が作りだされたのです。今でこそイラクをテロリスト国家などと言っていますが、イラン・イラク戦争の時、イラクを反革命の急先鋒に位置づけたのはアメリカです。イラクの軍事力の肥大化は、アメリカが行った軍事援助の結果です。そのイラクは、イラン・イラク戦争終結のあげく、戦争肥りして債務累積と折からの石油価格低迷の中で産油国間角逐へと追い込まれ、そして90年湾岸戦争が起こります。 中東民衆の<反米>の背景にある過酷な状況
人びとは絶え間ない苦悩と苦痛の中にあり、そしてアメリカという超大国の力が、それに対する批判や抵抗を全部つぶしていくという事態が続いています。エジプトのナセル大統領を中心とした60年代のアラブ解放運動。70年代に入って、パレスチナ難民を中心に、「中東」という枠組みを突き破ろうとする革命運動が起こりました。さらに70年代末から、イランを起点とした、イスラーム革命運動が起きます。
民衆の革命運動は、起きてはつぶされ、起きてはつぶされしてきました。現在、中東における革新運動はつぶされたままで、新たな胎動を見定めるのは困難な中、批判勢力は抑圧され、湾岸戦争以降、米国の一極支配が突出して続いています。富裕層と貧困層への二極分解の進行も目ざましく起こっています。圧倒的多数の困窮している側が、何の手立てもなく、革命の方向性も民族的な支えも疲弊したままでの絶望状況です。その中で、オサーマ・ビン・ラーディンらのテロリズムが生み出されてきたのです。
こうして見てくると、中東の人びとは、どうあがいても絶えず戦乱に巻き込まれる仕組みの中に置かれてきたのです。そして、いかに人びとが苦しもうが、そこにある石油を確保するために「中東」は冷酷に現状維持されてきました。中東は人びとにとっては地獄の様相をあらわしていたのです。
どんなに努力して生活を築こうとしても、一切が壊されてしまう。貧しければ貧しいなりに、小さな平和の中で生きていこうとしても、それも許さない。そういう現実が「中東」で、中でも最も絶望的な状況を体験してきたのが、パレスチナ人です。
9.11ゲリラに対して、中東の人びとがそれを支持しているように見える。だからイスラム教徒はテロリストだと一蹴してしまう動きがあります。しかし、なぜ中東の人びとが、「アメリカを、イスラエルを倒せ」というビン・ラーディンのメッセージに共感するのか。「中東」誕生時イスラーム世界住民が直面した危機状況をふりかえるとき、中東民衆の反米意識の背景が見えてくるように思います。パレスチナ問題の解決なしには、こうしたテロは終わらないと言われる理由が、そこにあるのです。 ユダヤ人以外はすべて排除され難民となった
イスラエルの国籍法(52年)には、イスラエルの国民はユダヤ人でなければならないという一項があり、世界のどこにいようとユダヤ教徒なら自動的にイスラエルの市民権を得ると、うたわれています。国家の中にユダヤ教徒以外の存在を否定する法律(
不在者財産法50年) もあります。
イスラエルができたときに、そこに住んでいたイスラーム教徒、キリスト教徒のアラブ住民は、ほぼ全部放逐され難民化しました。こういう住民たちを故郷に戻せという国連総会決議(48
年総会決議194/3号が最初)が何度もありました。しかしイスラエルは一貫して、無視し続けます。
イスラエルの領土と67年の第三次中東戦争で占領したヨルダン川西岸地区とガザ地区を合わせた所は、48年5月14日まで英国の植民地・パレスチナでした。ヨーロッパのユダヤ人勢力は、19世紀以来ロスチャイルド家に代表される西欧有力ユダヤ人たちと列強国政府との密接なつながりを介して、シオニズム(
パレスチナにユダヤ人国家実現をめざす運動)
が英政府からバルフォア宣言を引き出し、英委任統治領となったパレスチナ(20
〜48年) での合法的入植を通じてイギリスと深く結びつき、そこをイスラエルの建設予定地として容認させた。
さらに第二次大戦の末期、枢軸国側とアラブ側の接近を危惧してイギリスがユダヤ人移民を禁止する一方、ナチのユダヤ人ホロコーストが開始される中、ユダヤ人側はアメリカに要請し、大戦後の覇者アメリカは強力な政治工作を介してイスラエル建国を国際社会に認めさせたのです。
その時、宗教で人間を分けるなど許されない、ここでは多くの人びとが宗教の違いをこえて住んでいたのであり、そういう生活のスタイルがここにおける平和なんだと、一貫してアラブ住民は訴えました。しかしパレスチナは英国の植民地だから、48年5月14日以前は植民地の人間が国連の場で訴える権利は認められない。いっさいの現地の人の声は封じ込められて、こうしてできたのがイスラエルです。
旧約聖書の中に出てくる「エレツ・イスラエル」という言葉があります。ヨーロッパ人たちは、これは神がイスラエル民族に対して約束した土地という意味で、それが現在のパレスチナにあたるのだという。二千年も三千年も前の古代宗教の神話に基づき、なぜヨーロッパからにわかにやってきたユダヤ人が、たとえ異教徒といえど何千年もそこに根づいてきた人びとを一方的に否定できるのか。これはアラブ住民には全く不可思議です。
アメリカはアラブ住民を難民キャンプに収容することを打ち出しました。50年に米国主導下で国連パレスチナ救済事業機関(UNRWA)が設立されました。住民たちを、難民キャンプを作ってその中にとどめ、イスラエル領と化した彼らの故郷に戻さないようにしようと、アメリカはUNRWAに主なる資金提供してこれを支えました。
第二次大戦時の絶滅収容所を生き延びてヨーロッパ各地の故郷の家に戻ろうとしていたユダヤ人、そして英植民地支配30年近きにわたり、かなりの数にのぼったヨーロッパからのユダヤ人入植たちともそれなりに隣り合った生活をし始めていたパレスチナ人。その両者をともにアメリカは「難民」として位置づけ、この見知らぬ者同士を出くわさせ、一方が他方を追い出すという、永年の対立・憎悪につながる形で「収容」するシステム作りをしたのです。
こうしてイスラエルは米国にとって必要不可欠の一環として中東に登場します。イスラエルが、どんなに人道に対する罪を犯しても、アメリカは国連安保理で拒否権を発動し、それを認めませんでした。イスラエルは最大最強の軍事国家として周辺アラブ国家と絶えず緊張を起こしました。中東で何か起きれば、イスラエルの軍事力が決定的役割を果たすのです。 パレスチナ自治政府ができても八方塞がりに
エルサレムは三大宗教の聖地で、それぞれの宗教を信じる人たちが、この町でずっと共存してきました。イスラーム世界の中には、実はキリスト教徒やユダヤ教徒もたくさんいて、彼らが、いっしょに暮らしていくことを前提にしているのがイスラームの論理であり、その世界の生活システムです。
ユダヤ教徒たちは、エルサレムの自分たちの聖地「嘆きの壁」で礼拝を行います。この「嘆きの壁」の向こう側には、イスラーム教徒の聖地「ハラム・シェリーフ」があり、そこには重要なモスクである「岩のドーム」があります。さらに聖墳墓教会という、イエスが昇天したというゴルゴダの丘に建っているキリスト教徒の最重要の聖地があります。三つの宗教の聖地を取り囲むようにして、それぞれの宗教の人びとの生活の場(
ムスリム居住区/ キリスト教徒居住区・アルメニア人地区/
ユダヤ人地区) が広がっていました。
「嘆きの壁」の前の通路をはさんだ向かい側にイスラーム教徒が住んでいた住宅街がありました。それが67年にイスラエルが軍事占領してから変わってしまったのです。「嘆きの壁」の前にあったイスラーム教徒住宅は全部削りとられ、大広場にされました
。イスラエルは、ユダヤ教徒が自由に礼拝できるように、そこにあった「障害物」を取り除いたと説明しました。イスラーム教徒が住む他の地区でも、家が次つぎと接収されて、ユダヤの神学校やユダヤ教徒用の住宅に変えられました。イスラーム教徒居住地が力で削り取られていく事態が起きたのです。
ユダヤ人国家が拡大するにつれて、暴力的に人びとの生活は破壊されていったのです。エルサレムの外側のヨルダン川西岸地区全体でも、ユダヤ人入植地がどんどんできるにつれ、そこに住むアラブ住民が追い出され、没収された土地はユダヤ人用の住宅や道路に変わっていくのです。93年にオスロ合意がイスラエルとパレスチナとの間の平和協定として発効したあとも、こうした事態の進行はいっさい止まらないのです。
オスロ合意後、パレスチナ自治政府を通じて、パレスチナの平和作りをすると説明されてきましたが、実際は何が起きたのか。
イスラエル・パレスチナ占領地の境界線が、オスロ合意以降は国境線と言い換えられ、金網のフェンスが張られました。ところが「自治区」となった西岸地区のパレスチナ人地区から、毎日多くのパレスチナ人が出稼ぎ労働者となってイスラエルに入っていきます。イスラエル軍事占領時代に人びとは家を奪われ、職を失い、生活に逼迫してしまった。イスラエルの側は、自治政府ができたんだから、そこで働けと入国制限をくわえる。イスラエルへの「外国人労働許可証」は数が大幅に制限され、しかも多くの金がかかるので、多くの人びとには無理である。その結果として密入国するのです。
多くの逮捕者や逃げて撃たれる犠牲者が出ています。朝の4時や5時、まだイスラエル軍の監視が強化されないうちに、金網が破れた穴から潜入する若者たちの姿があとをたちません。
「自治領」となったガザの各地からも、毎朝多くの男たちがイスラエル国境へと押し寄せます。自治政府になったけれど、イスラエルの軍事占領で、水も奪われ、土地もなく、電気もない、経済も自立できない状態に今も変わりはない。何もかもなくなったガザ地区だけが戻ってきても人びとは生きていけず、イスラエルに働きに行くしかない。91年の湾岸戦争終結後、湾岸産油諸国からパレスチナ人労働者は圧倒的多数が追い出され、ガザの人びとはもはやイスラエルで働くしかないのです。
イスラエルでは彼らの多くは不法就労者だから、いくらでも安くこき使える労働者です。もぐりで密入国者をどんどん使うのです。宗教の違いで人間を選別するというイスラエル国家の実態が、ここまできている。体のいい低賃金労働者として使うために、パレスチナとイスラエルの平和協定を利用している現実が見られるのです。
90年代のパレスチナ人たちの八方塞がりの状況が続いています。 中東民衆が訴えているイスラーム世界の危機
同じような住民の窮状が、ソ連の侵攻とそれに続く内戦で国土が荒廃したアフガニスタンにもあります。戦後冷戦体制の中で、つねにアフガニスタンが、米ソ両大国の角逐の鋭い接点と化し、その中で住民は翻弄されてきました。彼らはパレスチナ人と同じように行きまどうしかないのです。
アフガニスタンの人びとが本来生きていた場所も、イスラーム世界の中でした。今人びとは、冬が迫り、食べる物もない、という危機的状況下にありますが、もともと遊牧の世界であって、大昔からキャラバンルートに位置しているこの土地では、生産していないものは、運び入れてまかなうという交易社会です。さらに「不毛の地」
とおぼしき砂れきの山岳地帯も、「カレーズ(
人工灌漑) 」にヒンドゥークシュの雪どけ水を集めてオアシス農業を営んでいる。そうした古代からの知恵の集大成が、そこに住む人びとの生活のシステムなのです。
それが、米ソの侵略によって破壊寸断されました。侵略者は「…民族」は支援するが「…民族」はたたく、というような介入によって民族問題をも引き起こしました。なぜ民族の違いで対立しなければならないのか? 違う民族同士がいっしょに暮らしてきたというのに、そこに亀裂を作ったのは一体だれなのか? それはヨーロッパの勢力が入ってきたからであり、旧ソ連、今はアメリカなのです。
人びとにとり「中東」は非人間的な世界であり、そこに<イスラーム世界の危機>を見るのです。それまで多様な宗教・民族・生活様式の人びとがいっしょに暮らしてきた世界が、宗教や民族の違いによって寸断され壊されたということです。イスラーム世界の平和を否定するものとして、住民たちは今日の中東の現実を受けとめているのです。
ここに生きている人びとの平和観、彼らが作ってきた文化や歴史、とくにいろいろな違いがある者たちが相互につながって生きてきたという、壮大な文明の姿を知らなければならない。平和を考える場合、たんに物を提供すればいいのではない。違いを超えて人びとが共存するという、このシステムに中東の人びとがどうすれば戻っていけるのか。ここに力を貸したり、われわれの見識を深めていくことが、平和の取り組みとして根本的に重要なことなのです。 |