TOKAKUSHIN
HOME NEWS 月刊 新コスモス 倒せ ファシスト石原 都革新とは

///

ホームへ > バックナンバー目次へ > 杉並映画村通信・バックナンバー > 050号〜099号
新コスモス
 「月刊新コスモス」で連載中 1996年09月掲載開始
第050〜099号

INDEX

■ 001 -- ■ 049  001--049

------------------------------------------------------------

■ 050 初老のスリはまだ死なない! 黒木和雄の十年ぶりの新作「スリ」

■ 051 「仁義なき戦い」の30年!  神作映画「新・仁義なき戦い」とは?

■ 052 暗くて哀しい現実を描く映像バラード  お正月映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」

■ 053 観客の幸福感に託した寓意 張芸謀の新作「初恋のきた道」

■ 054 捨象された松本サリン事件 「日本の黒い夏〔冤enzai罪〕」の問題点

■ 055 生き生きと美しい人間たち ドキュメンタリー映画「こどものそら」

■ 056 「羊たちの沈黙」に遠く及ばず! アメリカ映画「ハンニバル」

■ 057 「エリン・ブロコビッチ」の次の映画 実験作品「トラフィック」

■ 058 古風で不器用な構造が生む涙 東映映画「ホタル」が表現したもの

■ 059 アメリカ映画「A・I・」 人間の感情を与えられたロボット

■ 060 フランス映画「今日から始まる」 現実革新のためのエネルギー

■ 061 日本映画「ウォーターボーイズ」 爽やかな映画の迫力とは

■ 062 アメリカの記録映画「テルミン」 ロマンティックな電子音楽

■ 063 日本映画「赤い橋の下のぬるい水」 ぬるい水がしずめるものは

■ 064 アメリカ映画「ハリー・ポッターーと賢者の石」 長い長い謎解き物語の意味

■ 065 「千年の恋/ひかる源氏物語」について エレクトリック・シネマの時代

■ 066 「息子の部屋」と「ピアニスト」ノーマルとアブノーマル 二本のヨーロッパ映画を見て

■ 067 アメリカ映画「ロード・オブ・ザ・リング」 コンピーューター・ゲーム映画

■ 068 「トゥーランドット」と「エトワール」 舞台裏の記録映画が面白い!

■ 069 「光の雨」と「突入せよ!『あさま山荘』事件」 連合赤軍事件の映画

■ 070 アメリカ映画「チョコレート」

■ 071 ドイツ映画「es(エス)」 七日闇で中断した「監獄実験」

■ 072 まず東映公開の「命」 秋の見るべき日本映画

■ 073 時代劇映画「たそがれ清兵衛」 おもしろいのだが限界あり

■ 074 日本映画「刑務所の中」 実に面白い崔監督の新作!

■ 075 「日本心中/針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男。」 ついに4回も見てしまった

■ 076 ポーランド=フランス合作「戦場のピアニスト」 ポランスキーの意欲作への批評

■ 077 あなたは、どっち!? 「たそがれ清兵衛」と「刑務所の中」

■ 078 イタリア映画の惨状 「ピノッキオ」を見る

■ 079 アメリカ映画「シカゴ」を見て考える

■ 080 篠田正浩監督の「最後の映画」を見て 「スパイ・ゾルゲ」おまえは何者だ?

■ 081 アフリカで苦悩するユダヤ人一家 ドイツ映画「名もなきアフリカの地で」

■ 082 君はそれを、どう思う? ブラジル映画「シティ・オブ・ゴッド」

■ 083 いつか来た道のその先は? 映画版「踊る大捜査線」2作目を考える

■ 084 勝新太郎とビートたけしの差 北野武の座頭市映画に思う

■ 085 101才で死んだドイツ人女性監督 リーフェンシュタールとは何者?

■ 086 「いつかA列車に乗って」 音楽のプロたちが作った大人の映画

■ 087 日本映画「ヴァイブレータ」 ロマン・ポルノとピンク映画の合体

■ 088 前号の私の文章のタイトルについて 映画の世界における差別

■ 089 3本の面白い日本映画の共通性

■ 090 「ロスト・イン・トランスレーション」 変わっていないアメリカ人

■ 091 ポルトガル映画「永遠(とわ)の語らい」 95歳監督のシンプルな重厚さ

■ 092 黒木和雄監督の「父と暮らせば」 ぎりぎりの勝負が生んだ力

■ 093 珍しい西部劇の新作「ワイルド・レンジ」 西部の自由人と新保守派の戦い

■ 094 記録映画「らくだの涙」 ゴビ砂漠に生きる、らくだの涙

■ 095 ロンドンで生きる貧しい外国人たち イギリス映画「堕天使(だてんし)のパスポート」

■ 096 山田洋次監督「隠し剣 鬼の爪」 幕末の地方子藩の下級武士

■ 097 「ハウルの動く城」 奇妙で巨大な動く城は宙に浮く

■ 098 大林宣彦監督の「理由」 107人が証言する殺人事件の謎

■ 099 原一男監督の「またの日の知華」 ドキュメンタリーから劇映画へ

------------------------------------------------------------

■ 100 -- 100〜

 

============================================================

■ 001 -- 最新号 総目次ページ

杉並映画村通信 050 2000年10月掲載

 

 

杉並映画村通信初老のスリはまだ死なない!

連載 第050回 

黒木和雄の十年ぶりの新作「スリ」

 「とべない沈黙」「竜馬暗殺」「TOMORROW 明日」の黒木和雄監督の、十年ぶりの新作「スリ」の、映像でうち出された表現が面白い。これはリバーサイドのあたりの、古びたビルの屋上の奇妙な家を棲家にしている、原田芳雄の初老のスリの話である。
 アルコール依存症で指の震えるこの男は、めっきりとスリの技術を低下させていて、石橋蓮司のベテランのスリ係刑事に、しつこく追われている。いわば老年になってきた反体制運動家、とでもいったイメージである。
 彼のところには、実の娘ではないのだが、スリの技術を継承するつもりになっている、得体の知れないところのある、現代的な真野きりなの若い女が、同居している。彼女が野良犬を収容するセンターの仕事をしていて、声を失った犬を連れて帰ってその家で飼う、などという設定もなかなか面白い。
 他の監督が撮ったらこの映画は、老いたスリが時代の流れにとり残され、アルコールに溺れても、なお自分は昔のように生きているつもりになっているなさけなさを、心情的にしみじみと描いた(?)ような、よくあるタイプの作品になってしまったのかもしれない。
 しかし、なかなかフレッシュな映像表現によって、この映画の原田芳雄の主人公は、美空ひばりの「東京キッド」を裸で湯船につかりながら高い声で堂々と歌い、なお仕事に執念をもち、人の物をスリとる行為に挑んでいくという男に、なっている。
 元のシナリオでは、刑事に追われたこの男が、電車のプラットフォームから転落して死ぬ、という設定になっていたのだが、即興的に撮影していくうちに、完成作品ではなおぎりぎりのところでふみとどまり、スリをつづけていこうとする、という風に変っているのだ。
 しかもその技術は、若い女やそのボーイフレンドの男にも、引き継がれていく、ということを暗示する描写になっている。このあたりのぎりぎりの映像表現が、黒木和雄監督の映画作りと現代という時代に対する、ある意志の表明になっているのが、とてもいい。

 

杉並映画村通信 051  2000年11月掲載

 

 

杉並映画村通信新作映画「新・仁義なき戦い」とは?

連載 第051回 

「仁義なき戦い」の30年!

 深作欣二監督の映画「仁義なき戦い」(一九七三よりシリーズ化)は、原爆で焦土となった広島の戦後の闇市に、狼のようにギラギラした眼の若者たちが集り、食うため生きるためにヤクザの組を結成するという話だ。
 それをカラー・ワイド画面が常にグラグラとエネルギッシュにゆれる映像表現で、爆発的に描いてみせた、ユニークな日本戦後史映画であった。
 ヤクザの組には親分が必要だ、というので道化者扱いの、虚勢をはるチョビひげの土建屋を、シンボルとしてかつぎあげる。しかし日本の経済成長とともに、状況が変りはじめ、社会体制がどんどん固定化し、道化者扱いしていたダメ男の親分が、組のメンバーを実質的に統御し支配しはじめるのである。こうして若いヤクザたちが、歳をとりいっぱしの幹部になっていくうちに、日本は身動きのつかぬ、肥満症状の固定化社会になっていくのである。「おれたち、どこで道、間違ってしもうたんかのう?」と、一人のヤクザがつぶやく。
 さてそれから、約三十年である。同じ東映京都撮影所から、阪本順治監督の映画「新・仁義なき戦い」が生み出された。今度は、大阪のヤクザ組織の大親分が、跡目をとる人間を指名せずに死んで、老人の大番頭格の男は「おれは、おりる」と言って去ってしまう。それから、幹部たちの間に金銭がらみの、際限のない疑心暗鬼の不条理な暗闘がはじまっていく、という話である。深作版の「仁義なき戦い」とは、いわば逆構造の作品だ。
 豊川悦司の、その組のヤクザの幹部の男と、布袋寅泰のヤクザではない、在日韓国人の焼肉屋やクラブなどを経営している男という、眼つきの鋭い二人が、その疑心暗鬼の暗闘にまきこまれて、のっぴきならぬ立場に追いつめられていく。そしてこの二人は、約三十年前の公害が盛んになった頃の大阪で、親友の少年だった仲で、貧しい身の上で追いつめられて、ヤクザを殺した秘かな秘密を共有している、という設定である。さて、ここから観客は、いったい今、何を読み解いていけばいいのか?

 

杉並映画村通信 052  2000年12月掲載

 

 

杉並映画村通信暗くて哀しい現実を描く映像バラード

連載 第052回 

お正月映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」

 「ダンサー・イン・ザ・ダーク」という、デンマークのラース・フォン・トリアーという監督が作った映画が、ちょっと面白い。一九六〇年代のアメリカの田舎町の話なのだが、総て北欧で撮影されている。監督が飛行機に乗るのがきらいな人間だから、だそうである。
 チェコからアメリカにやってきた貧しい移民で、女手ひとつで一人息子を育てている、遺伝的な病気で視力を失いつつある若い女性がヒロインである。アイスランド生れの異能の女性シンガーソングライターのビョークがそれを演じる。童女のような表情をみせる、三五才の女性で、その個性が実にうまく使われている。この映画の音楽を担当したのも、彼女自身である。
 汚れた古い工場で、激しい労働をしている彼女は、時々ある瞬間、現実から心を遊離させて、夢を見るような状態になる。するとこの映画は、その瞬間からミュージカル形式のシーンに、なってしまうのである。工場の機械の音のリズムにのせて、彼女が急に歌をおどうたいはじめ、踊りだす。すると同僚の男女の工員たちが、音楽にのせて労働の動作そのままの、群舞をはじめる。
 それをこの監督独特の手持ちカメラが、ぐらぐらゆれる映像で、カラー・シネマスコープ・サイズの横長大画面に、とらえる。加えてミュージカル風のシーンを一挙に撮影してしまうために特に設置された、一〇〇台のデジタル・カメラがいっせいにまわって、特異なアングルからの細かいショットを映像化していく。
 このミュージカル的な手法が、やがて殺人がおこなわれるシーンや、その裁判がおこなわれるシーン、そしてラストの悲劇的なシーンにまで、そのままつづいていくのである。まるでドキュメンタリー的なバラード・ミュージカル映画、とでもいったおもむきで。
 暗くて哀しい現実の中で、いつも一瞬夢を見てしまう女のバラード。それが、不思議にリアルな現代的なロマンを、画面に刻みこんでいく。ダッカの女性闘士が捕えられた歳の瀬に、そんな映画がお正月作品として日本公開される。

 

杉並映画村通信 053  2001年01月掲載

 

 

杉並映画村通信観客の幸福感に託した寓意

連載 第035回 

張芸謀の新作「初恋のきた道」

 ちょうどアメリカ映画「ローマの休日」で、オードリー・ヘップバーンが出現した時のような、フレッシュでスイートな女優登場の映画が、現われた。「紅いコーリャン」「紅夢」「秋菊の物語」の中国の監督チャン・イーモウ(張芸謀)の新作「初恋のきた道」と、ヒロインとしてこの映画でデビューしたチャン・ツィイー(章子怡)のことである。
 映画は、現代中国を描く黒白画面で始まる。大都会で働くリッチな中国人が、教師だった老父の死で、貧しい故郷の田舎に帰り、老母と会うというシーンだ。
 やがて画面がカラーになると、その老母が十八才の頃、村に初めてできた学校に都会から赴任してきた、やがて夫となる二十才の男性教師にひと目惚れしてしまう、という話になる。
 その十八才の、目の見えない母一人に育てられた、文字の読み書きを知らない、ういういしく可憐な田舎娘としてデビューするのが、チャン・ツィイーである。中国北部の寒村の四季の変化を背景に、この娘がひたすら男性教師を思い、彼を野道で待ちつづけ、彼のために食事を作り、遠くその姿を見るだけでただただ夢中という日々の映像描写が、何とも観客をとても幸福にさせる(?)のである。近頃珍しく。
 これは実はチャン・イーモウ監督が、前作「あの子を探して」についで、アメリカのコロンビア・ピクチャーズ・フィルムプロダクション・アジアと、資本提携して作った、映画である。前作は、社会王義市場経済の国で作った、かなり複雑な物語のインターナショナルな中国映画として、少々図式性が目立った。
 それが二作目で、骨太な映像造型の中で、ドラマとテーマを極力単純化する、という創作方法がとられたのが、「初恋のきた道」なのである。社会主義市場経済で豊かになった現代中国が、あえて地味な黒白画面で描かれ、そこではいぜんとして貧しい僻村の老母が、カラー画面の中の非常に貧しい昔の場面では、逆にいきいきとしてとても幸福だ、という構成に、実に面白い寓意がある。チャン・イーモウは健在である。

 

杉並映画村通信 054  2001年02月掲載

 

 

杉並映画村通信

連載 第054回 

「日本の黒い夏〔冤enzai罪〕」の問題点

 「帝銀事件・死刑囚」「サンダカン八番娼館・望郷」「海七毒薬」の社会派、熊井啓監督が、生れ故郷である長野県松本市で起った、「松本サリン事件」のことを描いた、本格的な作品「日本の黒い夏〔冤enzai罪〕」(一時間五九分)を、日活で作った。
 警察が事件の第一通報者(寺尾聰)を犯人と推定し、それをマスコミが尾ひれをつけて報道して、オウム真理教の犯行であることが判明するまで、彼が犯人扱いをうけたという、冤罪事件である。
 映画は事件の十一カ月後、地元松本の高校の放送部の女子生徒(遠野凪子)と男子生徒が、地方テレビ局の報道部の部長(中井貴一)や記者たちに、インタビューしてドキュメンタリー番組を作り始めるところから始まる。
 それを通じて、事件のプロセスや警察のやったこと、マスコミの大騒動、第一通報者とその家族のこと、大衆の動きなどを、人間群像ドラマとして描いていく、という構成だ。
 実際に地元の松本美須々高校の放送部が、そういうビデオ・ドキュメンタリーを作ったという事実があり、それを元に平石耕一の戯曲「NEWS NEWS−テレビは何を伝えたか−」が書かれ、それが東京芸術座で上演された。それを原作としての映画化である。
 さすが監督の生れ故郷での映画作りだけあって、事件の起った土地や建造物などがそのまま使われた、なかなかリアルな映画になっている。背景にある長野の自然が、人間的な抒情感を生み出していくのも、悪くはない。
 ただし、オウム真理教の存在は「カルト宗教集団」としてちょっと出てくるだけで、ほとんど触れぬ形で、警察のやったことと、それを報じたマスコミの大騒ぎの責任のみを衝いた、映画の作り方は、やはり問題である。それによって映画は、解りやすく、単純化はされた。
 しかしこの複雑怪奇な、現代日本の混とんそのもののシンボルのような事件全体を、重層的に果敢に映像化していくべきリアリズムは、失われてしまっているのである。

 

杉並映画村通信 055  2001年03月掲載

 

 

杉並映画村通信

連載 第055回 

ドキュメンタリー映画「こどものそら」

 四七才の小林茂というドキュメンタリー映画の監督が作った、「こどものそら」(一時間四八分)という作品の公開が、BOX東中野という映画館で始まっている。この人は、同志社大学在学中から足尾鉱毒事件や水俣病事件にかかわった人たちと交流をもち、柳澤寿男という岩波映画出身のドキュメンタリー映画の監督の、助監督を十数年やっている。柳澤監督とは、福祉施設のことを描いた優れた長編ドキュメンタリー映画五本を、長い年月をかけて作ったことで知られる、今はもう亡くなった人だ。その後、小林茂は佐藤真監督の「阿賀に生きる」で撮影者となり、写真集「グラフィックドキュメント・スモン」「トウスビラ・希望/ウガンダに生まれた子どもたち」などを出版している。その彼が、北海道の札幌にある「しらかば台つばさクラブ」という、民間の共同学童保育所のことを記録した最初の作品、「放課後」(20分)を作ったのが一九九七年のことである。この映画は、沖縄音楽の調べにのせて、ここにかようふつうの子、障害のある子、さらに指導員、親などが、生き生きといっしょに歌い踊る姿を描いたシーンから始まる。この保育所の新しい福祉実践のイメージを、たった一日の撮影でダイナミツクに切りとった映像が、素晴らしい作品である。ついで一九九九年に、この保育所にかよう小学校六年生たちの、北海道一周自転車旅行のことを記録したのが、「自転車」(30分)である。アフリカ音楽のドラムの調べにのせて、大自然の中を疾走する少年少女たちの自炊天幕旅行が、生き生きと描かれている。そして二〇〇〇年に、この保育所のその後を描いて作られたのが「雪合戦」(59分)である。この三本をつなげたのが、今回公開の「こどものそら」なのである。偉い政治家や官僚や企業のトップなどが、醜態をさらしつづける今日この頃、この映画に描かれた、よりよい生活実現の運動を実践する、平凡な日本人庶民の顔、顔、顔が、何と美しいことか!!

 

杉並映画村通信 056  2001年04月掲載

 

 

杉並映画村通信「羊たちの沈黙」に遠く及ばず!

連載 第056回 

アメリカ映画「ハンニバル」

 アメリカ映画「羊たちの沈黙」の続編である、同じトマス・ハリスの原作小説の映画化「ハンニバル」の公開が、センセーショナルに始まっている。猟奇的な人肉食犯罪者ハンニバル・レクター博士(アンソニー・ホプキンス)の、その後の物語である。
 ただし「羊たちの沈黙」の監督ジョナサン・デミと、ハンニバル博士を追う女主人公のFBIの訓練生を演じていたジョディ・フォスターは、「ハンニバル」の撮影から降りてしまった。代って監督したのは「ブレードランナー」「ブラック・レイン」「グラディエーター」のリドリー・スコット。ベテラン捜査官になったヒロインを交代して演じるのは、「ことの終わり」のジュリアン・ムーアである。
 巨額の権利金を積んで「ハンニバル」の映画化権を買ったのは、イタリア出身の、商業的大作映画作りが大好きな、製作者のディノ・デ・ラウレンティスだ。低額予算で意欲的なB級映画を作る、ロジャー・コーマン・プロ育ちのジョナサン・デミ監督が作った「羊たちの沈黙」には、現代のおぞましいドロドロとした世紀末的な空気にメスを入れて、じわじわと切開していくようなリアルな切迫感があった。
 「タクシー・ドライバー」「告発の行方」を代表作とするジョディ・フォスターのヒロインにも、自分の肉体的な存在感を賭けて、一人の若い女が血なまぐさい現代の不条理の亀裂に、挑んでいくような追力があった。
 しかし「ハンニバル」は、エンタテインメント映画の大作、見せ物映画の話題作という感じの、きれいごとの猟奇犯罪映画になってしまっていた。まさに「タイタニック」か「ハンニバル」か、といった風な商業映画である。
 スキャンダラスだったクリントンの時代から、保守的なブッシュの時代に、アメリカが変ってきつつあることの、証明でもあろうか。間もなくやってきそうなアメリカの不況の時代の、前夜のつかの間の時に公開された。

 

杉並映画村通信 057  2001年05月掲載

 

 

杉並映画村通信「エリン・ブロコビッチ」の次の映画

連載 第057回 

実験作品「トラフィック」

 「トラフィック」という、アカデミー賞をいくつも受賞したアメリカ映画の、公開が始まった。監督したのはスティーブン・ソダーバーグ。もともとインデペンデント(小独立プロ)の世界の人で、低額予算短期間撮影の、ユニークな人間ドラマ「イギリスから来た男」を作った人である。
 その彼がメジャー(大手映画会社)の映画作りに進出して、「エリン・ブロコビッチ」を、商業映画として面白く、なおかつ骨太なテーマで堂々と作ってヒットさせ、主演のスター女優ジュリア・ロバーツに、アカデミー賞の主演女優賞をとらせた。
 そして次に作った「トラフィック」で、自からアカデミー賞の監督賞をとり、ベニチオ・デル・トロに助演男優賞、スティーブン・ギャガンに脚色シナリオ賞をとらせる、などしたのである。「トラフィック」とは「取引」のことである。
 メキシコとアメリカを結ぶ麻薬ルートにまつわるドラマを、メジャー映画の、たくさんの人物たちが出てくる人間群像劇として、リアルに描いてみせた作品である。上映時間は二時間二八分だ。
 しかもソダーバーグ監督は、マイケル・ダグラスやキャサリン・ゼタ=ジョーンズなどの大スターの出るこの映画を、インデペンデントの映画作りの方法を大胆に導入して、徹底して省力化して、やってみせたのである。ノーメークアップの人間たちが出てくる、ザラザラした画調の、リアリズム人間群像映画として。
 カメラも監督自身が、自分で廻した。もっともギルド(職能組合)の反対で、ピーター・アンドリュースという変名を、使いはしたのだけれども。このへんがこの監督の面白いところで、ダテにメジャーとは組まないで、一作ごとにかなりの魂胆のある実験をやっているのである。
 その結果「トラフィック」が、大成功の麻薬取引の悪追及の、リアリズム映画になっていれば、まあ言うことはないのだが。それほどの傑作ではない。だがほどほどに、次のこの監督の実験を、さらに待望させる映画にはなっている。そのあたりが、こうした戦略戦術の極意、というものなのでもあろうか?

 

杉並映画村通信 058  2001年06月掲載

 

 

杉並映画村通信古風で不器用な構造が生む涙

連載 第058回 

東映映画「ホタル」が表現したもの

 高倉健が「鉄道員(ぽっぽや)」以来二年ぶりに主演する東映映画「ホタル」は、武骨で古めかしい作品である。鹿児島湾の老漁師である主人公は、知覧から出撃した特攻隊の生き残りだ。恋女房の田中裕子は、医師から命はあと一年半と言われている身で、これも昔の恋人を特攻隊で失っている。
 彼と彼女の周りには、同じ時代に特攻隊員としての体験をしたり、それを見送ったりした世代の男女が、何人もいる。いずれも戦後の長い歴史を、それを引きずって、営々と平凡に生きてきた人たちである。そんなカラー画面の現代と、黒白画面の戦時中の場面が、交互に出てくる構成になっている。
 日本の大きな映画会社の撮影所が、音から育ててきた古風な、物語の展開のしかたと、情緒的な涙また涙の、ドラマの訴えかたを、色濃く残した作品といっていい。「故郷の空」「鹿児島おはら節」「アリラン」といった歌が、それらのシーンの泣かせ所に流れる。
 今度の作品も、詰めかけた中高年世代の観客に、映画館の暗闇の中で、涙をしぼらせることになりそうである。高倉健がぶっきらぼうな芝居をして首をふり、田中裕子がそれを支えて哀しそうに笑い、鹿児島湾に赤い夕陽が沈むシーンが出るごとに、館内にはすすり泣きがおこりそうだ。
 高度経済成長期にがんばり、バブルの時代にも甘い汁をすったとはいえず、バブルがはじけて後の今もいっこうに恵まれない、大多数の中高年層の日本人たちは、健さん演じる主人公もそうなのか、おれと同じに―と、ジーンと涙ぐむのに違いない。この映画の作りかたの古風さ、無器用さ、そのものがまた、そうした涙をかきたてるのである。
 革新的な考えかたをしている人間、と自称するエリートたちの、対極に位置する映画。しかし、そんな人たちもついつい、日本人の泣き所で思わず、涙させられてしまうような映画。小泉新政権の支持率が、ひどく高い今日この頃の、微妙な時期に出てきたこれは、ちょっとこわい映画、である。

 

杉並映画村通信 059  2001年07月掲載

 

 

杉並映画村通信人間の感情を与えられたロボット

連載 第059回 

アメリカ映画「A・I・」

 「プライベートライアン」「E・T・」のスティーブン・スピルバーグ監督の、話題の新作映画「A・I・」を見た。二時間二六分の長時間作品で、「2001年宇宙の旅」の故スタンリー・キューブリツク監督の残した企画を、スピルバーグが脚本も書いて映画化した、SF作品である。
 「A・I・」とは「アーティフィシャル・インテリジェンス(人工知能)」の略で、これは「シックス・センス」のハーレイ・ジョエル・オスメント少年の演じる、「愛する」という人間的な感情をインプットされた、最新タイプの次世代ロボットを主人公とする、未来社会のドラマだ。
 地球温暖化の急激な進行によって、南極の氷が溶け、世界の都市が水没し、厳しい人口制限がひかれた時代の話である。一人息子を失った若い夫婦が、かわりに主人公のロボット少年を手にいれる。しかし冷凍保存していた実子が、科学の進歩で甦えった時、ロボット少年は森に棄てられる。 ロボット廃棄処理場が近くにあるその森で、少年は廃棄されたロボット達と出会い、古代ローマ帝国の闘技場のような、ロボット破壊ショーの会場で、怖い思いをする。そして少年は「スターリングラード」のジュード・ロウ演じる、ジゴロ風のセックス・ロボットと、奇妙な旅に出るのである。
 やがて話は二千年後に飛び……という作品なのだが。これを故スタンリー・キューブリック監督が映画化していたら、あるいは「ピノキオ」風「2001年宇宙の旅」というか、「オズの魔法使」風「時計じかけのオレンジ」のような、作品になっていたのかもしれないと思う。セツクス・シーンなども、もっとリアルだったろう。
 だがスピルバーグの監督だと、総てがまるでディズニー映画のように幼児化された、メルヘンになってしまった。コンピュータ・グラフィックスの特撮に全面依存した映像も、お伽噺風だ。最近目立つアメリカ映画の、ひ弱な虚構化現象を実証するような作品である。

 

杉並映画村通信 060  2001年08月掲載

 

 

杉並映画村通信現実革新のためのエネルギー

連載 第060回 

フランス映画「今日から始まる」

 

 「今日から始まる」というフランス映画が、面白い。「田舎の日曜日」「ラウンド・ミッドナイト」の、今年六〇才のベルトラン・タヴェルニエ監督の作品だ。最近のフランス映画は、保守的な古い映画作りに後もどりした、どうしようもない作品ばかりである。
 ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)の映画革新運動が、新しい時代の始まりを予兆し、やがて五月革命に連動していった頃の熱気は、いったいどこにいってしまったのか、という感じである。
 それが一九九九年に作られた「今日から始まる」で、面白い形で映像的に息づいていることが、実感された。これは詩人であり、幼稚園で職員として働いていた体験をもつ、ドミニク・サンピエロが基本となるシナリオを、監督とその娘とともに書いた作品である。
 カラー・シネマスコープサイズのカメラが、北フランスの廃鉱の町アンザンの「垣根の向こう」幼稚園にもちこまれ、そこで総ての撮影がおこなわれた。園児たちが出演し、この地方の劇団の人々やアマチュア俳優たちが、大人の役を演じた。狂言まわしの若い園長の役をやったのが、コメディ・フランセーズの俳優フィリップ・トレトンである。
 映画は不定型なカメラ・アイで、雑多な人間群像ドラマを、いっせいに同時進行させていく形で、作られている。夫の失業による貧困で、園児の少女と赤ん坊を放置し、酒に溺れる母親がいる。シングルマザーの母親の、ボーイフレンドによる幼児虐待がある。
 施設は古くなり、職員は不足し、予算は足りず、官庁の人間たちは冷たい。若い園長自身もまた、シングルマザーの女性と同棲し、その息子との関係に悩む一人の人間である。まさに状況は、日本とまったく同じである。
 それでも園長は、常に辞任を考えながら、なおも気をとりなおしつつ、毎日をよりよき明日のために、生きていこうとする。すると、周囲に小さな変化が起って、何かが少しづつ、変るのである。そんな日常的な現実認識が、新鮮でしたたかなのが、とてもいい。

 

杉並映画村通信 061  2001年09月掲載

 

 

杉並映画村通信爽やかな映画の迫力とは

連載 第061回 

日本映画「ウォーターボーイズ」

 九月の日本映画は「ウォーターボーイズ」が、なかなか面白い。地方の男子高校の解散寸前の水泳部の、ダメ男の五人の部員たちの話である。彼らはハチャメチャな行動の積み重ねの末に、仲間を集め二八人で、何と女の子がやるものであることになっているシンクロナイズド・スイミングを、男だけで文化祭でみごとに、やってしまうのだ。
 この話には実はモデルがあって、埼玉県立川越高校の水泳部が、もう一三年間もやってきている、「男のシンクロ」という、文化祭の名物的出しものなのだそうである。映画のオリジナル・シナリオを書いて監督したのは、「裸足のピクニツク」「アドレナリンドライブ」の、矢口史靖である。
 製作したのは、アルタミラピクチャーズだ。「Shall we ダンス?」や、田中麗奈のデビュー作、「がんばっていきまっしょい」を作った会社である。この社名を名のる前に、ここに結集したスタッフが作った映画には、「ファンシィダンス」や「シコふんじゃった。」がある。
  いいかげんな若者たちが、坊さんになったり、相撲部でがんばったりする話が、「ファンシィダンス」と「シコふんじゃった。」である。「Shall We ダンス?」は、ダメ男のサラリーマンが社交ダンスをする話。「がんばっていきまっしょい」は、女子高校生たちがボート部を作ってしまう話だ。
 という風に考えてくると、この会社が作る日本映画には、大きな共通項があるのがわかる。かなりダメで、ハチャメチヤな日本人たちが、自分に一つの命題を課し、ゴタゴタしながらも、何とかそれを達成してしまうという話なのである。その達成感の爽やかさが、映画の力になっている。
 「ウォーターボーイズ」も、水泳の能力と演技力でオーディションされた、二八人の新人若者俳優たちが、川越高校のOBや元水泳日本チャンピオンの指導によって、実際にシンクロをやってのけるシーンが、クライマックスになっている。何だか実に、面白い示唆を含んだ映画である。

 

杉並映画村通信 062  2001年10月掲載

 

 

杉並映画村通信ロマンティックな電子音楽

連載 第062回 

アメリカの記録映画「テルミン」

 

 「テルミン」という不思議なアメリカの記録映画が、日本のミニシアターで、ヒットしている。テルミンとは、一九二〇年代にソ連のレフ・セルゲイヴイッチニアルミン博士によって発明されそた、不思議な音を出す素朴な形の、世界最初の電子楽器なのである。
 レーニンは革命ソビエト芸術の成果としてこれを絶賛し、彼をヨーロッパとアメリカに行かせ、コンサートをさせる。ニューヨークに活動拠点をおいたテルミン博士は、アインシュタインやチャップリンとも交流する。そしてやがて後にテルミンの電子音楽は、アメリカ映画「白い恐怖」「失われた週末」「地球の静止する日」などにも使われる。
 ところが一九三八年、テルミン博士の姿は突然、アメリカから消えるのである。テルミン奏者として有名になったアメリカ人女性の恋人を残して。その謎は、後に明らかになる。ソ連によって拉致され、スターリン粛清で、強制労働を宣告されてしまったのだ。
 八年間の収容所生活の後、テルミン博士は、ソ連軍の秘密の仕事に従事させられる。電子楽器の理論を応用した、通信傍受の時の雑音除去の仕事だったという。そして歳月が流れ、意外なことに老人となった彼が、母国で生存していたことが判明するのだ。ゴルバチョフの時代になっていた。
 一九九一年、老いたテルミン博士が、半世紀ぶりにニューヨークにやってくるあたりのシーンは、ちょっと泣かせる。間もなく彼は死ぬのだが。テルミンの電子音楽は、レッド・ツェツペリンやビーチ・ボーイズによって使われて、音楽の世界に新しい流れを作ったりもする。
 近年不振のアメリカ映画は、同時多発テロ事件一のテレビ報道映像が、「まるで映画みたい!」などと言われるように、現実に先行されて、さらに顔色を失っている。こんな時、映画「テルミン」が妙に面白く、新鮮にも思えるのは皮肉である。初期電子音楽の響きが、ロマンティックに聞こえるのだ。

 

 

杉並映画村通信 063  2001年11月掲載

 

 

杉並映画村通信ぬるい水がしずめるものは

連載 第063回 

日本映画「赤い橋の下のぬるい水」

 今村昌平監督の「赤い橋の下のぬるい水」は、辺見庸の小説を下敷きにした、奇妙でおくめんもない、性のメルヘン映画である。
 役所広司の演じるリストラされて家を失い、女房子供と別居してホームレスとなった男の話だ。彼はホームレス仲間の、哲学者と呼ばれていた死んだ男の言葉に従って、地方のある港町にやってくる。
 「日本海に面した川にかかる、赤い橋のたもとに、ノウゼンカズラの咲いている家がある。その物置きに、黄金の仏像を隠した。それをお前にやる」と、死んだ男は言ったのである。来てみると確かに、その家はあった。
 そこは古い和菓子を作る家で、清水美砂の美しい女と、倍賞美津子の老婆が住んでいた。そして男は、その美しい女と、家の二階でセックスすることになるのである。
 すると、歓喜する彼女の女性自身からは、何とみるみるぬるい水が大量に噴出し、それはフトンから流れ出して階下に流れ、ノウゼンカズラの根をひたし、さらに赤い橋の下の、川の水と海の水が合流する流れにそそぎ、そこを泳ぐ魚たちを乱舞させるのである。
 男もまたそのセックスに歓喜して、港町にとどまって、彼女の水の噴出をしずめる(?)役割を果すことになるのだ。カンヌ国際映画祭でグランプリを得た、今村作品「うなぎ」の主演コンビでもある二人が、またまた面白いキャラクターを演じている。
 あっけらかんとした自然体で作られた、今村映画の異色の秀作「うなぎ」の流れが、さらに新しい性のメルヘン映画に大転換したのか、と息をのむような思いで見たのだが、さてそれからが、あまりよくなかった。
 旧来の今村流の、観念の絵解きのような変な画面がいくつも出てきて、結局映画は何が何だかよく解らぬままに、終ってしまうのだ。そのあたりをもっと自由に、あっけらかんと突き抜けられたら、これはアフガンヘの米軍の報復の砲火の噴出をしずめる、人間的な面白い寓意にとんだ、性のメルヘン映画になったのかもしれなかったのに。
●連載 第064回 タイトルと本文の間違い

 

杉並映画村通信 064  2001年12月掲載

 

 

杉並映画村通信長い長い謎解き物語の意味

連載 第064回 

アメリカ映画「ハリー・ポッターと賢者の石」

 世界的なベストセラーになっている、イギリスのJ・K・ローリングの小説の映画化作品「ハリー・ポッターと賢者の石」を見た。上映時間二時間三二分で、「ホーム・アローン」「ミセス・ダウト」のアメリカの監督クリス・コロンバスが、イギリスにのりこんで、イギリス人スタッフと作ったアメリカ資本映画である。
 イギリス色を出した巨大なセットがいくつも作られ、イギリス人の性格俳優たちがたくさん出演する作品だ。同じセットと俳優たちを使いまわして、早くも第二作の「ハリー・ポッターと秘密の部屋」の撮影が、既に始まっている。いじめられっ子の一一才の少年ハリー・ポツターが、どうやら魔法界を救った人物らしい両親の血を引いて、魔法・魔術学校に入学して始まる謎めいた奇妙な物語だ。。
 アメリカ映画「スター・ウォーズ」あたりがアイデア元のような、長い不思議な魔法と冒険の物語が、イギリス色たっぷりに、えんえんとつづいていき、だんだんと謎が解ってくる、といったシリーズ映画になりそうである。何しろ原作小説は、七部作になるのだというのだから。
 一本の映画としての「ハリー・ポッターと賢者の石」は、正直いって原作のダイジェスト版さし絵集映画、とでもいったところである。原作の読者でないと不得要領なところのあるお話で、出来ばえもとても大味だ。
 これでは熱心な原作小説の愛読者には「やっぱり映画にすると、原作の味が失われる」などとも、言われかねない。それにこうした映画というのは、とにかく原作を読んでいない者にも、一本の作品として映画独自の面白いものになっていないといけない。
 「スター・ウォーズ」とかこの映画のような、架空の長い長い謎めいた伝綺物語に、世の人々が心ひかれるのは、なぜなのだろう?それは、アメリカが多発テロ事件発生の原因を探しあぐねて頭をかかえているような現状を反映した、よく解らぬものへの原因探しの焦りの心理にも、似たものなのかもしれない。

 

杉並映画村通信 065 2002年01月掲載

 

 

杉並映画村通信エレクトリック・シネマの時代

連載 第065回 

「千年の恋/ひかる源氏物語」について

 東映の創立五〇周年記念作品「千年の恋/ひかる源氏物語」は、テレビ系の人たちが作った、劇場用映画である。シナリオを書いたのがテレビドラマ「夢千代日記」の早坂曉であり、監督したのがテレビドラマ「岸辺のアルバム」の演出家の、堀川とんこうだ。
 東映は、それ以前の大作「長崎ぶらぶら節」も、テレビ系の人たちに作らせている。なかにし礼の原作をシナリオ化したのが、テレビドラマ「淋しいのはお前だけじゃない」の市川森一であり、監督したのがテレビドラマ「夢千代日記」や「あ・うん」の演出家の、深町幸男である。
 それは、何のためなのかというのは、ちょっと面白い問題である。東映は、映画の製作はとても近い将来、フィルムを使わずに、デジタル化されると思っているらしい。
 映像データをデジタル信号化してビデオテープにおさめ、編集やダビングもそれでおこない、上映も衛星経由で映画館に配信する、というシステムだ。フィルムにより撮影と編集とダビングをおこない、そしてフィルム化した映画のプリントを焼き、運搬するシステムにくらべると、莫大な経費が節減できるのである。
 経済的効率性によって、総てが動いていくのが、資本主義の鉄則である。この数年、ハリウッド映画にろくな作品がないのは、コングロマリット資本に組みこまれた映画会社が、映画のデジタル化の流れを目前にして、本格的なフィルムによる大作の製作を、ひかえているからだ。
 そしてデジタル化され、エレクトリック・シネマと呼ばれるようになった映画は、恐らく限りなくテレビドラマと同じようなものに、なっていくであろうことが、予測される。
 既にデジタル映画館までオープンさせている東映が、「千年の恋/ひかる源氏物語」と「長崎ぶらぶら節」に、テレビ系の人たちを使った理由も、それにちがいない。どうりで両作品とも、まるでテレビの長時間もの特番ドラマのように、なってしまったわけである。

 

杉並映画村通信 066 2002年02月掲載

 

 

杉並映画村通信二本のヨーロッパ映画を見て

連載 第066回 

「息子の部屋」と「ピアニスト」ノーマルとアブノーマル

 二〇〇一年のカンヌ国際映画祭で、パルムド一ル(グランプリ)を得たイタリア映画「息子の部屋」(ナンニ・モレッティ監督)と、審査員特別賞を得たフランス=オーストリア映画「ピアニスト」(ミヒャエル・ハネケ監督)が、ほぼ同時に日本で公開される。
 イタリアの静かな地方の港町で暮す、中流の精神分析医とその家族が、息子の突然の災厄による死を、どうのり越えられそうになったかを、カラー・ワイドの画面に淡々と描いたのが、「息子の部屋」である。
 老母の過干渉に縛られた中年のウィーン国立音楽院の女性ピアノ教師が、ポルノショップやドライブインシアターで痴態を演じ、年下の男子学生に求愛されても、彼に自分本位の一方的な間接的性行為を強いることしかできない、といった状態をセンセーショナルに描いたのが、「ピアニスト」である。
 この二本は、まさに対称的な映画である。「ピアニスト」の方は、主演の男女優二人が、ともに主演女優賞、男優賞を得てもいる。ノーマルな作品の出演者より、アブノーマルな作品の出演者の方が、高い得点が得られるパーセンテージが高い(?)、ということでもあろうか。
 さて、この二本のヨーロッパ映画は、現代のアメリカ=ヨーロッパ型社会における人間生活というものの、二極分裂を描いているのだ、という風に考えられなくもない。イデオロギーも宗教も信じられぬ時代に、ノーマルに生きているつもりの人間たちと、アブノーマルな生活に突出していった人間たち、である。共通しているのは、ともに苦悩している点である。そして世界にはもちろん、まったく別の生活をし、苦悩している人たちがいる。第三世界の人たちだ。イランをはじめとするアラブ諸国の映画や、アジア=アフリカ諸国の映画などが、描いているような。「息子の部屋」や「ピアニスト」の登場人物たちの苦悩が、ちょっと浮いたものにも見えてくるのは、そんな視点に立った時だ。

 

杉並映画村通信 067 2002年03月掲載

 

 

杉並映画村通信コンピーューター・ゲーム映画

連載 第067回 

アメリカ映画「ロード・オブ・ザ・リング」

 「ハリー・ポッターと賢者の石」につぐ、アメリカ映画の話題作「ロード・オブ・ザ・リング」は、J・R・R・トールキンの長大な神話的な小説「指輪物語」を映画化した、三部作映画の第一部で、二時間五八分の大作である。
 ニュージーランドの監督である、「ブレインテッド」「乙女の祈り」のピーター・ジャクソンの作品で、この国の雄大な自然を背景に、ニュージーランドで撮影された映画だ。この国の特撮会社WETAデジタル社の、CGを始めとする特殊技術が、大々的に使われている。
 主人公の若者、ホビット族のフロド・バギンズの役を演じるのは、「8月のメモワール」「ディープ・インパクト」の、イライジャ・ウッド。太古の昔、闇の冥王サウロンが、世界を滅ぼす魔力を封じこめて作った指輪を、ミドル・アースの第三紀の時代、わが手にしたこの若者が、それを破壊するため、仲間とオルドルイン山の火口への旅をするという物語だ。
 厖大な登場人物群と、複雑な曲折をたどる物語。さまざまな怪物や妖怪が出てきて、魔法や呪いが入り乱れる。何とも奇妙な大河風の神話スペクタクル映画だ。物量的な超大作という意味では、「ハリー・ポッターと賢者の石」をしのぐ、作品である。
 しかし、監督が凡庸でシナリオに統一感がないので、一貫したテーマが盛りあがらず、登場人物群にも個性がない。これでは劇場用映画の大スクリーンで、立体音響効果つきの、壮大なコンピューター・ゲームでもやっているような気分に、なってしまう。
 いささか図式化して言ってしまうと、アフガニスタンでビンラディン探しの、コンピューター・ゲーム的な戦争をやっている、ブッシュ大統領とアメリカそのものを、まるでカリカチュアライズしたような映画、なのである。
 確たるテーマも、個性的な面白さもなく、ただただ大スペクタクルのアクションがあるだけ、という。

 

杉並映画村通信 068 2002年04月掲載

 

 

杉並映画村通信舞台裏の記録映画が面白い!

連載 第068回 

「トゥーランドット」と「エトワール」

 オペラとかバレエといった、舞台芸術に関することを描いた、二本の長編記録映画が、とても面白い。一本はアメリカ=ドイツ合作映画の「トゥーランドット」。もう一本はフランス映画の「エトワール」である。「トゥーランドット」は、同名のプッチーニのオペラを、フィレンツェ歌劇場の首席指揮者ズービン・メータが「オペラの物語の背景になっている本物の中国の北京の紫禁城を舞台に、上演した時の記録フィルムだ。
 ただし、舞台そのものの記録ではなくて、その舞台裏のオペラ制作の進行過程を撮影した作品である。指揮者のメータは、その舞台の演出を、中国人映画監督のチャン・イーモウに、ゆだねたのだ。「紅いコーリャン」「紅夢」「活きる」「あの子を探して」「初恋のきた道」の、あのイーモウである。
 まず中国当局が、反体制派のイーモウ監督の登用に、反対したらしい。しかし指揮者メータは、その説得に成功する。だが今度は、ヨーロッパ人のオペラ制作のスタッフ・キャストが、オペラの常識を破ったイーモウ監督の演出と、次々と激しいトラブルを起す。その異文化衝突のありさまの記録が、波乱万丈で劇映画そこのけに、面白い。

 

 「エトワール」は、三百年以上の伝統を持つパリ・オペラ座バレエ団の、ダンサーたちを中心とするメンバーの、舞台裏での厳しい習練やリハーサル、本番などのスケッチで構成された、記録映画である。そのフランス的なエスプリを利かせた、人間の肉体の鍛練の映像記録が、なかなか美しく、かつ素晴らしい。
 「トゥーランドット」は、音楽イベントの記録映画作りの名手、アメリカ人のアラン・ミラーの監督作品。「エトワール」は、俳優でもあるフランス人の、記録映画監督ニルス・タヴェルニエの作品である。
 世界の劇映画が、おしなべて沈滞気味の今日この頃、緊張と波乱に富んだこのステージの舞台裏のドキュメントの面白さは、何だか痛烈な、ある現代的な皮肉と寓意を、感じさせもする。

 

杉並映画村通信 069 2002年05月掲載

 

 

杉並映画村通信連合赤軍事件の映画

連載 第069回 

「光の雨」と「突入せよ!『あさま山荘』事件」

 

 もう三〇年前のことになる、連合赤軍あさま山荘事件のことを描いた映画は、昨年に独立プロの作品「光の雨」が登場した。これは冬の厳しい山岳地帯に実際にロケをして、連合赤軍の側から、この事件を描こうとしたものであった。
 しかし、事件そのものの進行と、それを今、映画に撮影しようとするスタッフ.キャストの姿を、ダブらせて映像化していく、という面白いアイデアを、うまく生かしたとはいえぬ、不発の一作となった。連合赤軍という存在に対する、作り手の側の視点が、いっこう明確にわからないのが、最大の原因だった。
 そこに今度は、「突入せよ!『あさま山荘』事件」という、もう一本の映画が登場してきた。原作は佐々淳行の「連合赤軍『あさま山荘』事件」(文塾春秋)だ。こちらは、突入した警察の側から、この事件を描いた作品である。
 シナリオを書き監督したのは、「日本腐触列島/呪縛」の、原田眞人である。主人公佐々淳行を演じるのは、役所広司。その主人公を警務局監察官として現地に派遣した、当時の後藤田正晴警察庁長官を演じるのが藤田まことだ。これは東映系で公開される、作品である。
 ところがなぜかこの作品、連合赤軍側のことはまったく描こうとせず、中央の警察庁に属する人間と、現地の長野県警に属する人間との、えんえんとつづくトラブルを、人間群像ドラマとして描いていくという、奇妙な人事ギクシャク劇になってしまっていた。
 妙に威勢のいい、右傾化した大アクション・ドラマなどが出てきて、現政権の進行させつつある戦争体制作りにはずみをつける気か、などという思いも、なくはなかったのだけれども。
 それはまあこの映画には、なかった。しかし、警察の側から、あさま山荘事件を描くこの映画にも、連合赤軍に対する視点というものが、いっこうに明確に出てはこなかったというのが、何とも面妖だった。これは、革新の側も保守の側も、三〇年前のあの事件というものに、まだ何のけじめもつけていない、ということの、何よりの例証でもあるのだろう。

 

 

杉並映画村通信 070 2002年06月掲載

 

 

杉並映画村通信

連載 第070回 

アメリカ映画「チョコレート」

 

 アメリカ映画「チョコレート」は、二〇〇二年のアカデミー賞の主演女優賞を、史上最初の黒人女優としてとったハル・ベリーが、授賞式の時に号泣した、あの映画である。日本初登場のマーク・フォスターが監督した、インデペンデント(中小独立プロ)の作品だ。
 黒人差別の激しい、ディープ・サウス(深南部)の田舎町の話。黒人死刑囚の処刑をおこなった刑務所の看守の白人の中年男(ビリー・ボブ・ソーントン)が、男の主人公である。その黒人死刑囚の妻(ハル・ベリー)が、女の主人公だ。
 老父も自分も息子も、代々看守をやっている男は、黒人差別主義者の白人である。黒人と仲よくし、死刑囚処刑の時に、ミスをした息子を、殴り倒して自分の目の前で自殺させてしまう。一方、死刑囚の妻はその後、肥満体の幼い一人息子を、交通事故で失う。
 お互いの関係に気づかぬ、そうした白人の男と黒人の女が、たまたま出会って、お互いの失意と喪失感を埋めるために、抱きあう。その肉体と肉体を結ぶセックスのエクスタシーを、カラー・シネマスコープの横長大画面で描いた映像が、みごとだ。肌の色の異なる男と女のセックスを、ここまでストレートに正視した映画は、初めてである。アメリカ映画のタブー打破の作品だ。
 インデペンデント(中小独立プロ)の映画ならではのこと、といっていい。最近のアメリカのメジャー(大手)映画会社の作品には、こうした現実直視の作品が、なくなってしまった。
 映画をフィルムで撮り、公開する時代がどうやら終わって、経済効率上デジタル撮影して衛星経由で公開することになりそうな今の時代を前提に、アメリカのメジャー映画会社は、本格的作品の製作に弱腰になっている。そしてデジタル化された映画は、限りなくテレビに似たものになる、という実感がある。
 「チョコレート」を見ていると、アメリカ映画の今後、というより映画というものの今後は、こうしたインデペンデントの作品に、支えられていくことに、なるのかもしれない、という気がする。

 

杉並映画村通信 071 2002年07月掲載

 

杉並映画村通信7日間で中断した「監獄実験」

連載 第071回 

ドイツ映画「es(エス)」

 一九七一年、アメリカのスタンフォード大学のフィリップ・ジンバルド教授が、「監獄実験」というのを、学生たち二十人を使って、おこなった。半数を看守役、半数を囚人役にして二週間、模擬刑務所の監房に閉じこめる、という実験である。
 この実験は、七日間で中断されてしまう。監視カメラつきの模擬刑務所で、看守役の学生たちが、顔つきを変えて暴力をふるいはじめ、囚人役の学生たちがそれに反抗して、よういならぬ事態が生じてきてしまったからである。エリートである学生たちが、与えられた状況の中で、それに影響されて暴力行為をおこない、「民主主義的なアメリカ人」らしからぬ、行動をとるに至ったのである。
 「第二次大戦中のヒットラーの時代に、ドイツ人たちがおこなった、ユダヤ人に対する残虐行為」というものの解明が、この実験の根底にはあったという。
 二〇〇一年に作られたドイツ映画「es(エス)」は、この実験を劇映画化したものである。マリオ・ジョルダーノの原作・脚本を、テレビ映画出身の今年四五才の、オリバー・ヒルシュピーゲル監督が、映画にした。
 主人公は、元ジャーナリストの若いタクシー運転士で、秘かにルポを書くためにこの実験に加わる。他の一九人とともに、四千マルクの報酬が出るこの実験を、新聞広告で知ったからである。彼は囚人役となる。
 そんな設定ではじまる映画は、二〇人の出演者と映画製作スタッフによって、ある工場を改造した地下のスタジオで、三〇日間にわたって撮影された。そして参加した人間たち自身が、だんだんと不快になり、残忍な気分になっていった、という。
 この映画を作ったのが、ドイツ人たちであった、というのも何となく複雑な思いがすることである。ただしこの映画は残念ながら、面白い人間の心理実験作品という以上の、鋭い普遍的なテーマを導き出すには、至っていない。

 

杉並映画村通信 072 2002年08月掲載

 

 

杉並映画村通信秋の見るべき日本映画

連載 第072回 

まず東映公開の「命」

 秋の日本映画が、ちょっと面白くなってきた。まず東映系で9月14日(土)より全国公開される「命」である。柳美里の自伝的連作小説を、「月とキャベツ」「はつ恋」「女学生の友」の篠原哲雄監督が、映画化したもので、シナリオを書いたのは「39[刑法第三十九条]」「黒い家」の、大森寿美男だ。
 別にイデオロギー的な政治映画でもなければ、肩ひじ張ったアート.シアター風の映画でもない。といって、よくある日本的私小説風映画でもない。東映系で全国いっせい公開される一般商業映画として、なかなか面白くて、なおかつ現代的な意味のある作品になっているところが、とてもいい。
 在日韓国人女性作家である柳美里は、妻のある男の子を妊娠し、相手の煮えきらぬ態度に悩みぬいた末に、かつての恋人だった東由多加を訪ねる。柳美里を演じるのが江角マキコ、東由多加を演じるのが豊川悦司である。この二人の、飾らぬ人間的な存在感が悪くない。
 東由多加は、かつて彼女も所属していた、東京キッドブラザースのリーダーで、家出をくり返し、自殺願望のある彼女に、小説を書くことでバランスをとり、生きていくきっかけを、作ってくれた男だった。
 その男は今、末期癌に冒されてる。彼女は彼といっしょに生活し、生まれてこようとする生命と死に向かう生命を、共に自分の肩で支え、なおかつ自分の生きる力も大きくそこからもらって、そのこと自体を小説に書いていく、という生きかたを始めるのである。
 死の直前の東由多加の入院している病院の前で、東京キッドブラザースの先輩だった女優が、柳美里にこういうシーンが、印象的である。「私は今まで、あなたが嫌いだった。でも今はあなたに、感心はしないけど、感動した!」と。
 何も信じるもののない現代に、こういう個人的な場にあえて自分を置き、悩んで髪をふり乱して壮絶に生きる姿を、小説で公にして問い、それ自体を自分の生きる力にした女の話、である。これは、山田洋次監督が藤沢周平の小説を映画化した新しい時代劇映画「たそがれ清兵衛」とならぶ、今秋の見るべき映画の一本である。

 

杉並映画村通信 073 2002年09月掲載

 

 

杉並映画村通信おもしろいのだが限界あり

連載 第073回 

時代劇映画「たそがれ清兵衛」

 山田洋次監督の松竹系11月公開の時代劇映画「たそがれ清兵衛」が、なかなか面白い。藤沢周平の短編小説「たそがれ清兵衛」「竹光始末」「祝い人(ほいと)助八」(新潮文庫)を、アレンジした作品一2時間9分)である。
 元治二一(1865)年、東北の海坂藩に、五十石どりの貧しい武士、井口清兵衛(真田広之)がいる。妻を亡くし、幼い女の子二人と痴ほう気味の老母を抱え、城から帰ると内職をする毎日である。たそがれ時になると、そそくさと家に帰ってしまうので「たそがれ清兵衛」と言われている。
 洗いざらした着物はほころび、さかやきにも薄毛を生やし、身体からは汗の匂(にお)いがする。そんな下級武士の日常の生活を、極カリアルに描いていこうという映画作りが新鮮で、悪くない。
 それも昔のイデオロギー的な独立プロ映画のように、露悪(ろあく)的にやるのではなくて、松竹映画風の、人間の日常生活を節度を持って描くやりかたで、新しい時代劇映画にしているのがいい。
 藩内の派閥暗闘にも加わっていないその清兵衛が、親友の武士の妹で、酒乱の夫と離別した幼なじみの女(宮沢りえ)とのかかわりで、彼女の元の夫と果たし合いをして、勝つ。そしてそこからさらに、今度はお家騒動がらみで、不気味な豪腕の剣客(前衛舞踏家の田中泯)と、死闘を演じることになってしまうのだ。
 ただしその全編を、幼い末娘が成長した後という設定の岸恵子のナレーション(解説の声)で、過剰に説明しすぎてしまっているあたりは、近頃(ごろ)のテレビ・ドラマ風で、いただけない。何から何まで総(すべ)て言葉で説明しすぎてしまっていて、これでは映画の映像表現の骨太さに、欠けるのである。 そのため、間もなく幕末動乱の時代に突入するという、映画全体の歴史的枠組み設定というものが、ドラマの背後に大きな寓意(ぐうい)をもって、骨太に生きていないのだ。それがこの映画を「面白い作りの時代劇物語映画」に、終わらせてしまっている原因であろう。このへんが、総てをパターン化して平明に作ってきた、「男はつらいよ」映画四十八作の、後遺症(?)というものなのでもあろうか。

 

杉並映画村通信 074 2002年10月掲載

 

 

杉並映画村通信実に面白い崔監督の新作!

連載 第074回 

日本映画「刑務所の中」

 崔洋一監督が、作風(さくふう)をがらりと変えて作った新作の「刑務所の中」(1時間33分)が、実に面白い。マンガ家花輪和一の実体験に即した作品(青林工藝社刊)を、「月はどっちに出ている」以来コンビを組む鄭義信と、崔組助監督出身の中村義洋、そして監督自身がシナリオ化したものである。
 撮影はこれも崔監督作品を何本も撮(と)ってきた、「命」の浜田毅。まずいかつい名性格演技者山崎努が奇妙なユーモアをこめて神妙(しんみょう)に演じる、中年男の静かな主人公ハナワが、絶妙(ぜつみょう)である。モデルガン・マニアの彼は、野外で仲間と戦闘ゲームをやり、凝(こ)りに凝って銃身(じゅうしん)に弾道の穴をあけて作ったモデルガンで、実弾を試射して、秘(ひそ)かなエクスタシーにひたる。そしてそのために、銃砲刀剣類(じゅうほうとうけんるい)等不法所持と火薬類取締法違反で、懲役3年の刑に服することになってしまうのである。それ以後のシーンは総て、今は博物館になっている網走(あばしり)監獄と東京のセットを使った、獄中のシーンになる。主人公と同房の囚人は4人だ。
 主人公を加えたその5人が、丸刈り頭の囚人服で、奇妙な規則に縛(しば)られた房内で、妙に静かにしかし機敏(きびん)に、変に平和な日常生活を送っていく描写が、何とも実に面白いのである。そんな風に身に規制をかけられた世界では、物を食うこととか、入浴をすることとか、封筒貼(ふうとうは)りをする単純作業などに、何とも身ぶるいのするような、エクスタシーが生じるのだ。
 「フィラメント」でヤクザをやった松重豊、「御法度」やTV「プロジェクトX」のナレーションの田口トモロヲ、「歩く人」の香川照之、「サラリーマン専科」の村松利史といった、同房の囚人を演じる一騎当千(いっきとうせん)の俳優たちも、好演である。
 その期せざるユーモアに思わず笑っているうちに、何となくゾッとしてもくるような、これはまさに現代日本の、奇妙に閉塞的(へいそくてき)なおかしなおかしな平和社会そのものを、縮図化(しゅくずか)したような映画なのである。今年のベスト・ワンに選出したいと、私が思うような。

 

杉並映画村通信 075 2002年11月掲載

 

 

杉並映画村通信ついに4回も見てしまった

連載 第075回 

「日本心中/針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男。」

 「日本心中/針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男。」という、1時間27分の前衛的なドキュメンタリー作品を、ついに4回も見てしまった。画家でもある大浦信行が、監督・脚本を担当して作った、デジタルベータカム撮影の作品である。
 これは、美術評論家である今年77歳の針生一郎についての記録映画、という風に考えている人が多いようだが、そうではない。正確にいえば、針生一郎をメインの出演者として撮影された、アヴァンギャルド的なドキュメンタリー作品、とでもいうべきであろう。針生一郎が書斎や喫茶店や韓国の食堂などで、背をかがめてもごもごと(?)語る、保田與重郎と自分との関係、あるいはヴァルター・ベンヤミンと自分との関係などが、この作品のとても重要な部分にはなっている。
 しかしそれに、彫長が人間の肌に刺青(いれずみ)を彫(ほ)る場面、少女と少年や大人の女と男が朗唱(ろうしょう)するポーの文章、あるいは大野一雄と大野慶人親子の舞踏や、韓国人女性のパンソリ、在日韓国人男性と針生一郎の対話、反体制運動家の韓国人画家の独白(どくはく)、山下菊二の描いた絵、幼い少女の姿など、もろもろの映像が介入してくるのである。
 それと、ファースト・シーンから入ってくる水の音が、シャワーや渓谷(けいこく)の水の流れや、滝や在日韓国人が語る少年時代の川の話、あるいは反体制運動家の韓国人画家が受けた水責(みずぜ)めの拷問(ごうもん)の話、という風につながって、イメージを作っていくのである。
 そこから浮かびあがってくるのは、言葉の論理を超えた、映像と音の流れによって表現された、この世界の中のアジアの人間である日本人が、現代という時代の中で果たすべき役割に対する、示唆(しさ)にとんだアヴァンギャルド的な提言、とでもいうべきものなのだ。
 大滝信行監督は、既(すで)に東京公開が終わったこの作品の、4部作を形成することになるらしい第2部を現在撮影中なのだけれども。これは機会があったら、多くの人達にぜひ見てもらいたい、唯今(ただいま)全国各地で上映中の作品である。

 

杉並映画村通信 076 2002年12月掲載

 

 

杉並映画村通信ポランスキーの意欲作への批評

連載 第076回 

ポーランド=フランス合作「戦場のピアニスト」

 母国ポーランドで「水の中のナイフ」を作り、ヨーロッパに渡って「反撥(はんぱつ)」を作り、アメリカに渡って「ローズマリーの赤ちゃん」を作った後に、幼女とのセックス・スキャンダルでアメリカを追われ、イギリスで「テス」を作った、異才監督ロマン・ポランスキー。その彼ももう、今年で70才である。
 ポーランド系ユダヤ人で、父母を強制収容所に送られ、自身もゲットー体験をもつポランスキーは、スティーヴン・スピルバーグに「シンドラーのリスト」の監督を依頼された時、これを断っている。その彼の作った2時間28分の新作「戦場のピアニスト」は、カンヌ映画祭でパルムドール(最高作品賞)を得た、大作である。
 ポーランド系ユダヤ人の国民的作曲家でピアニストの、ウワディスワフ・シュピルマンの回想録を元にした、英語版の苛烈(かれつ)な戦争体験のドラマだ。主人公を演じるのは、「マリー・アントワネットの首飾り」の、エイドリアン・ブロディである。
 ナチス・ドイツ軍のポーランド侵入の時、主人公はワルシャワのラジオ局で、ショパンの曲を演奏中だった。街ではナチス親衛隊がユダヤ人狩りを始め、ユダヤ人はゲットーに強制移住させられ、やがて強制収容所への列車による移送が始まる。彼はそこから一人で逃れて苦難の日々を送るのだが。
 当時のワルシャワ市街とゲットーを再現するために、ベルリンの撮影所に大セットが組まれ、旧ソ連軍兵舎を壊して廃墟(はいきょ)が作られ、ポーランドのワルシャワヘのロケもおこなわれた。そして主人公の眼を通した当時の惨状が、この曲者(くせもの)監督の作品としては珍しく、オーソドックスにしてかつ苛烈に、描かれていく。監督の執念(しゅうねん)もあって、それはそれなりに、壮観でもある。
 しかし、カンヌではジャーナリストから、「それにしても、イスラエルでユダヤの民が今おこなっている、パレスチナ人への迫害は、いったい何なのだ?」という、評が出たそうである。これまたまことに、オーソドックスな。

 

杉並映画村通信 077 2003年02月掲載

 

 

杉並映画村通信あなたは、どっち!?

連載 第077回 

「たそがれ清兵衛」と「刑務所の中」

 

 山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」と、崔洋一監督の「刑務所の中」が、2002年の日本映画の、特に面白く見られた作品であったようだ。映画雑誌「キネマ旬報」のベスト・テンでも、「たそがれ清兵衛」が1位で、「刑務所の中」が2位だった。どうやらそんな評価が、定着してきそうな気配(けはい)である。
 清貧(せいひん)の人生を、人間としての誇りをもって生きた、地方の藩の下級武士のホーム・ドラマ時代劇である「たそがれ清兵衛」。モデル・ガンを改造して実弾を発射し、懲役刑になってしまった中年男が、刑務所のがんじがらめの規則に縛(しば)られた生活の中で、妙に静かに平和に、日常生活のはしばしにエクスタシーを感じながら生きる、ホーム・ドラマ的な刑務所ドラマ(?)である「刑務所の中」。
 なるほどどちらも、アメリカによる戦争の匂(にお)いが色濃くなってきた時代の、停滞(ていたい)期のどん詰りの日々を生きる日本のサラリーマンや、元サラリーマンたちにとって、身につまされるような映画であるには、違いない。
 ただし、時代劇という昔のお話の設定を借りて、しみじみと、貧しい下級武士の人生を描いた「たそがれ清兵衛」は、いわば行きどまりの、人生教訓ホーム・ドラマである。
 「刑務所の中」は、刑務所のようになってきてしまった今の日本社会で、一人一人孤立させられて、オタク的な日常生活を送り、そこから生じる秘(ひそ)やかなエクスタシーを、唯一(ゆいいつ)の歓(よろこ)びとして生きているようなところのある日本人たちの姿を、わがこととして描いた、いわば寓話(ぐうわ)的な現状直視映画(?)である。
 その「たそがれ清兵衛」が、ベスト・テンのトップとなり、「刑務所の中」が2位になったということ。これは、「やっぱり、行きどまりの昔話映画が首位か!」と、がっくりとする事態なのか。それとも、「寓話的現状直視映画が、2位で敢闘した!」と、みるべきなのか。考えようによって、複雑な気分になる、今日この頃である。まさに「あなたは、どっち!?」とでもいう、感じである

 

杉並映画村通信 078 2003年03月掲載

 

 

杉並映画村通信イタリア映画の惨状

連載 第078回 

「ピノッキオ」を見る

 

 第二次大戦によるイタリア社会の荒廃をふまえて、戦後始まったイタリア映画のネオリアリズムの潮流は、「無防備都市」や「戦火のかなた」や「自転車泥棒」といった作品を生んだ。この流れを、抽象的な映像表現の方向に歪め、導いていってしまったのが、フェデリコ・フェリーニ監督の「道」と、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「さすらい」という黒白画面映画だった、と私は思っている。
 一見厳しいリアリズム表現をふまえているようでいながら、実は精神世界の問題を、ムード的に映像化していくという、一種の神秘主義への移行である。画面がカラー化すると、それはますます顕在化する。フェリーニの作品はいっそう人工的なものになり、セット内のビニールで作られた大きな海を、作り物の巨船が航行するような映画が、多くなっていく。
 アントニオーニの作品の場合は、大地や空や煙突の煙が、人工的に着色されたりするような、表現主義的作品が、多くなる。あるいは、スローモーション撮影で、現実を抽象的に、徹底加工してしまったような。まあそういう邪道な作品に対抗して、ルキノ・ヴィスコンティ監督や、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の作品のような、カラー化した映画でのネオリアリズム表現の、正道を往くような堂々たる作品群も、あるのだけれども。
 しかし、そのヴィスコンティも、パゾリーニも、今はもう亡い。そして、その後のイタリア映画は、フェリーニ以後、アントニオーニ以後、とめどもなくネオリアリズムの流れから外れていって、今やさんたんたる状態である。その筆頭が、「ライフ・イズ・ビューティフル」という通俗的な、ネオリアリズム形骸化の商業映画が、世界的に大ヒットしてしまった、ロベルト・ベニーニであろう。
 同じく監督・脚本・主演して作った、彼のワンマン大作「ピノッキオ」が、目をおおわんばかりの通俗的な受け狙いの、イタリア風オールド・ファッションの下世話な喜劇映画になってしまっているのが、何よりの証拠である。

 

杉並映画村通信 079 2003年04月掲載

 

 

杉並映画村通信

連載 第079回 

アメリカ映画「シカゴ」を見て考える

 

 

  アメリカのミュージカル映画「シカゴ」は、ブロードウェイの舞台ミュージカルの名振付師兼演出家で、映画監督に進出して自らのヒット舞台「キャバレー」を映画化もした、亡きボブ・フォッシーの、ステージの大ヒット作の映画化である。
 そして今回の映画「シカゴ」の振付と監督をしたのは、これもブロードウェイの名振付師兼演出家で、ボブ・フォッシーの「キャバレー」を、新しい振付と演出(サム・メンディスと共同)で舞台で再演してヒットさせた、ロブ・マーシャルだ。彼の映画監督進出第一作である。
 「シカゴ」は、1920年代のセックスとジャズと犯罪の交錯する都市シカゴを背景とする、ミュージカルだ。映画版は、これを二人の女性の人生を映画的にダブらせる、という新しいアイデアで作られている。
 劇場のステージで演じられる、女性スターのヴェルマ(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)が歌い踊る、妖しいミュージカルと、現実世界でミュージカル・スターを夢見る、働いて暗い人生を生きる女性ロキシー(レニー・ゼルヴィガー)の生活が、最初は並行して描かれる形で、映画は始まる。
 やがてその二つは、不思議な形で交錯していき、入りまじり、ミュージカルのステージと実人生は一体化し、夢がうつつか、うつつが夢か、わからなくなっていくのである。ロブ・マーシャル監督は、このアイデアを思いついた時に、映画化を決意したという。
 しかし、新感覚で演出されたステージ・ミュージカルのシーンも、実人生の暗いシーンも、しょせんはともに、1920年代の風俗を再現して描かれる作り話なのである。従ってこの映画版の新趣向には、作劇上の面白さ、という以上のリアリティは、ないのである。
 リアリティのある現代的な、新しいミュージカル映画を作ろうというのなら、ラース・フォン・トリアーが監督し、ビョークが主演し音楽を担当した、最後にはヒロインが死刑になってしまう、あの「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を越える位の所まで、いかなければねえ。

 

杉並映画村通信 080 2003年05月掲載

 

 

杉並映画村通信篠田正浩監督の「最後の映画」を見て

連載 第080回 

「スパイ・ゾルゲ」おまえは何者だ?

  篠田正浩監督が「私の最後の映画だ」と言う、3時間2分の大作「スパイ・ゾルゲ」を見た。デジタル・ハイビジョン・カメラでビデオ撮影され、それをフィルムに転換した映画なので、ロング・ショット(遠景)の多い画面が、やや暗調になる。だがこれは、戦争の時代の日本の、暗さを象徴する技法のつもり(?)なのでもあろうか?
 ドイツ人新聞記者として日本にやってきたゾルゲ(イアン・グレン)は、東京のドイツ大使館と密接な関係をもちながら、ドイツと日本の機密情報を、秘かにソビエトに送っていた。彼の友人である新聞記者で、満鉄と関係をもち、近衛文麿のブレーンでもあった尾崎秀實(本木雅弘)が、日本の情報を彼に提供した人物として、脇役的に登場する。
 やがて2人は日本の官憲に逮捕され、敗戦の直前に刑死する。これはその2人の姿を軸に、昭和史を描く映像絵物語的な映画、とでもいおうか。デジタル画面に同調しやすいCG特撮を盛大に使い、日本国内各地や上海やベルリンにもロケして、当時の時代風俗がさまざまに、画面に再現されていく。
 原作・製作・脚本も、篠田監督自身がおこなった作品である。しかしそのかんじんのシナリオが、大味かつ一本調子で、いっこうに面白くないのが問題である。いったいゾルゲとは、何者であり、尾崎とは何者であったのか?そしてこの2人は、昭和という時代と、当時の世界の歴史に、何をもたらしたというのか?
 このあたりは、もっと個性強烈なシナリオ作者を登用して、その人と建設的な大喧嘩をしながら、真の意味での鋭い思想性をもにじみ出させ、透徹した寓意をこめて、作ってほしかったところである。
 彼の映画の代表作は、寺山修司、富岡多恵子、武満徹、長谷部慶次、山田太一といった優者と組んでシナリオを作った時、最も光り輝いたという実績が、あるのだから。これでは、亡き尾崎秀樹が、泣いて怒るのではないだろうか!

 

杉並映画村通信 081 2003年06月掲載

 

 

杉並映画村通信アフリカで苦悩するユダヤ人一家

連載 第081回 

ドイツ映画「名もなきアフリカの地で」

 ドイツ映画「名もなきアフリカの地で」は、女性監督カロリーヌ・リンクが、女性作家シュテファニー・ツヴァイクの自伝的小説を現地全面ロケで映画化した、2時間21分の大作である。
 アフリカのケニアの未開の荒野に、白人の親娘3人が、農地管理人として渡り、苦闘する話だ。いわば典型的な、植民地としてのアフリカに移住した、白人の話である。
 ところが、時代と人物の設定が、ヒットラーがホロコーストを本格化させる寸前の頃のドイツから、逃げるように移住する、ドイツ系ユダヤ人の弁護士一家のこととなると、話はちょっと変わってくる。
 夫はマラリアにかかり、妻はドイツでの都会生活に未練がある。夫は妻に「君がケニアの人を見る眼は、ナチスがユダヤ人を見る眼と同じではないのか?」と痛烈に批判する。
 妻は夫とのセックスを拒否し、一家が敵性国人としてイギリス軍の収容所に入れられた時、ドイツ系イギリス人兵士と不倫をする。夫は志願してイギリス軍人となる。
 しかし幼い娘だけは、ケニアの大地の上で生活し、黒人の仲間たちと交流し、現地語を覚えて、おおらかに育っていく。そしてイギリス人経営の寄宿学校に進学して、ユダヤ人として差別される。
 イギリス軍の収容所の生活が、ドイツ系ユダヤ人の農地管理人としての貧しい生活にくらべると、天国のように楽だった、という皮肉も面白い。
 やがて、ナチス・ドイツは戦争に敗北し、ユダヤ人一家は結局、ドイツに帰ることになる。夫のドイツ司法界への復帰が、認められたからである。帰国する白人たちをのせた列車が、窓外にバナナを売りにくる貧しい黒人の老婆と遭遇するラスト・シーンも、ケニア人への偏見を批判するエピソードとして、利いている。
 しかし、それでもこれは結局、アフリカを植民地支配した白人たちのドラマである、と言う点では、旧来のこの種の作品と、変わってはいないのである。イスラエルのユダヤの民が今、パレスチナ人たちに対して、していることなどを、改めて考えてみても。

 

 

杉並映画村通信 082 2003年07月掲載

 

 

杉並映画村通信君はそれを、どう思う?

連載 第082回 

ブラジル映画「シティ・オブ・ゴッド」

 ブラジルから、ラテン・アメリカの「仁義なき戦い」(!)とでもいうべき、不思議な映像的な熱気をはらんだ映画「シティ・オブ・ゴッド」(2時間10分)が、やってきた。リオデジャネイロ郊外にあるスラム「シティ・オブ・ゴッド」を背景に、そこで育った恐るべき暴力少年たちや、犯罪者の若者たちの、人間群像ドラマである。
 貧困と腐敗と暴力が日常化している、このスラム出身の作家であるパウロ・リンスの書いた、登場人物が6百人におよぶノンフィクションの一大年代記を、CMの監督出身のフェルナンド・メイレレスと、ドキュメンタリーとCMの監督出身のカチア・ルンヂが、共同で映画化した作品だ。
 時間が自由に飛び、人間とそれが起こす事件が互いに交錯し、時々誰が誰だったのかよく解らなくなってしまうような、「シティ・オブ・ゴッド」の住人たちの重層的なエピソードが、暴力やセックスや麻薬がらみで、サンバやソウルやロック音楽のリズムにのって、荒々しくいっせいに、映像化されていく。
 3人のギャングが強盗をやり、その見張り役をやった少年が、ピストルを持ったまま行方知らずになり、ギャング3人はバラバラになって逃走する―というエピソードが、大体の話のスタートなのだが、それに時空を越えた謎めいたエピソードが、多層的に複雑に、からまり合ってくる。
 少年たちが手に手にピストルを持って、それを乱射しながら、町を疾走する。そしてその中から、凶暴なギャングが育って、互いにグループを作り、抗争をくりかえす。それを取り締まる警察も腐敗を極め、役人や政治家は利権をあさることしかしない。その中から、また次の世代の暴力少年たちが、出てくる。
 暴力抗争のドラマを荒々しく描くことが、もうできなくなってしまった日本社会にイラだって、苦しんだ末にガンで死んだ深作欣二監督が、目をむいてうらやましがりそうな、混乱と混とんの一大騒乱状態が、ここにはあるのである。君はそれについて、いったいどう思う?

 

杉並映画村通信 083 2003年08月掲載

 

 

杉並映画村通信いつか来た道のその先は?

連載 第083回 

映画版「踊る大捜査線」2作目を考える

 

 公開中の映画「踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」が、大きな興行成績をあげているようである。元はフジテレビによって1997年に放映された、人気刑事物連続ドラマである。それが何度か特別番組として続編が作られた後、同じフジテレビによって1998年に劇場用映画版「踊る大捜査線 THE MOVIE」が作られ、大ヒットした。
 フジテレビの巨大ビルのある、お台場の湾岸警察署を舞台に、織田裕二や深津絵里や、いかりや長介などのおなじみの刑事たちが、ユーモアまじりに活躍するという、まあいってみればいささか調子のいい、馴れあい気分のエンタテインメント刑事物ドラマである。
 この湾岸署を、会社組織でいうと支店になぞらえ、それに本店の警視庁が関与して、何かというと強引な捜査で割りこんでくる、というのがドラマ設定のパターンになっている。その警視庁側のおなじみのメンバーが、柳葉敏郎、筧利夫、ユースケ・サンタマリアといった連中だ。

 とここまで書いてくると、まるで48作も作られた映画「男はつらいよ」シリーズのような、きまりきったワン・パターンの娯楽ドラマを、制作側と観客側がいわば馴れあって、和気あいあいで作っていくタイプの作品の、典型例であることが、わかるはずである。そういえば「男はつらいよ」も、元々はテレビのシリーズ・ドラマであった。
 こんな風に、「いつか来た道しか通ろうとはせず、そんな馴れあい気分に満足することだけに、当面の楽しみを見出し、それですっかり癒されたつもりになってしまっている」、日本人一般の、現状をうつし出す鏡のような作品、それが「踊る大捜査線」なのである。もちろん、私自身もふくめた。
 そんな外に向かっての視点を閉じてしまった、「いつか来た道」風の娯楽への固執こそが、やがて時代を「戦争という、いつか来た道」に、ジワジワとストレートにつなげていくことになるのだという危険を、もう誰もがはっきりと自覚しないと、いけない時が来ているというのに! 

 

杉並映画村通信 084 2003年09月掲載

 

 

杉並映画村通信勝新太郎とビートたけしの差

連載 第084回 

北野武の座頭市映画に思う

 北野武監督が、俳優としての芸名ビートたけしの名で主演もした映画「座頭市」の、公開が始まった。亡くなった勝新太郎の座頭市とくらべると、ビートたけしの新座頭市は、やや図太さに欠け、都会的で線が細い。そのかわり(?)、次から次へととっかえひっかえ、殺陣のシーンを画面にくり出して、あきさせない。
 血の噴出や肉体の一部が切断されるシーンなどに、ごく瞬間的にCG(コンピューターグラフィックス)の特撮を、巧く使っているのも面白い。浅野忠信の敵役の浪人が、3か月間の武術の特訓によって、なかなか豪快な剣技を見せて、強そうなのも悪くない。ラストの村祭のシーンに、ミュージカル風のダイナミックな集団ダンスをもってきたのも、まあなかなかの壮観である。
 そのラスト・シーンを予告するような感じで、それ以前の2か所のシーンに、それにつながるリズムを刻んだ場面をわざわざ設定しておく、などという稚気まんまんの演出も、いかにも北野映画らしい。
 亡き勝新太郎自身が監督した、後期の頃の座頭市映画にも、北野映画と共通するような、自由奔放な映像表現の飛躍や、即興的撮影の面白さのようなものがあった。時々それが、いささか独善的な映画作りになってしまうようなところも、よく似ている。
 勝新もビートたけしも、その意味では「アウトロー」の、映画の作り手であり、タレントである点が共通している。だから「座頭市」という企画は、そもそもが、日本の伝統的な時代劇映画作りの歴史の中から生まれた、異端のヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)でもあったのである。
 しかし勝新の場合は、その「伝統的な京都派の時代劇」の枠組みというものが、結局いつも根っこに、ある「古さ」として残っているようなところがあった。北野映画の場合は、そのへんが無国籍的に「新しい」ところが、いかにもビートたけし作品らしい。ただしそうなると、なぜわざわざ北野武が今さら座頭市?といった思いも、してこないでもない。まるで日本共産党の新綱領でも、読んだ時のような!

 

杉並映画村通信 085 2003年10月掲載

 

 

杉並映画村通信

連載 第085回 

101才で死んだドイツ人女性監督

 レニ・リーフェンシュタールが、101歳でこの世を去った。テレビなどまだなく、真空管ラジオが日々のニュースを伝え、新しい映像メディアとしての映画が世の注目を集めていた時代に、ヒットラーのナチス第3帝国の威容を世界に誇示した、ベルリン・オリンピックの記録映画「民族の祭典」「美の祭典」2部作を作った、女性監督である。
 第2次大戦後、彼女は「戦犯映画人」として糾弾されるが、「私はナチス党員であったこともなければ、ヒットラーのユダヤ人絶滅政策に関与したこともない。ヒットラーの権威を使って、自分の美的表現を完全に満足させる映画を作っただけだ」と主張し続け、あらゆる訴追をかわした。さすがに、自分が監督した本格的な映画を、2度とつくることはできなかったのだけれども。
 来日したこともある彼女は、日本の文化人やジャーナリズムに「壮大な映像美の世界を創造した、現代的な芸術家」として、絶賛されてきた。しかし、本当に彼女には、ヒットラーに加担した映画人としての、責任はなかったのだろうか?
 「民族の祭典」は実は、数々の映像的な詐術を駆使して、人間の肉体がスポーツをする時の美を理想化し、人工的に完璧に造型してしまった、およそ非ドキュメンタリー的な、美学至上主義の映画なのである。そして、古代ギリシャ人の肉体美は、現代のナチス・ドイツのヒットラーユーゲントに受けつがれている、という主張を壮大に映像的に偽造してみせた、映画なのである。
 その現実のリアリティを無視し、壮大な架空の美の世界を構築し、それを一見絶対的なものに見せてしまった映画作りというのは、ヒットラーのユダヤ人抹殺思想や、アーリア人による世界支配の悪夢とまさに通底する、「美の絶対主義を思考する、美的なファシズム」そのものなのである。
 それを何よりよく証明しているのが、現在日本で公開中の彼女の映画「原色の海」と、彼女のことを撮影した映画「アフリカへの想い」であろう。無意味な唯美主義の、なれの果てを実証する。

 

杉並映画村通信 086 2003年12月掲載

 

 

杉並映画村通信音楽のプロたちが作った大人の映画

連載 第086回 

「いつかA列車に乗って」

 

 「いつかA列車(トレイン)に乗って」という、12月に小映画館1館〔新宿トーア〕で公開のちょっと面白い日本映画を見た。東映東京撮影所に作られた、かなり広いジャズ・クラブの、渋い落ちついたセット一杯を舞台に、多数の客や従業員やジャズ演奏家たちなどの、人間模様をからませて作られた、独立プロの作品である。
 そしてこれが、何とわが敬愛する亡き巨匠内田吐夢監督が、1955年に作った「たそがれ酒場」(新東宝)の、巧みな換骨奪胎なのである。この作品は、当時流行していた、大衆的な歌ごえ酒場のセット一杯を舞台に、そこにさまざまな人間模様をからませた、異色作だった。
 それが、ジャズ・クラブの話として、新しい映画になったのだ。「いつかA列車に乗って」とは、もちろんデューク・エリントン楽団のテーマ曲にもなっていた、名曲「A列車で行こう」にちなんだ、題名である。
 そしてこの曲が、この映画のテーマ曲として店内で演奏もされる。この新作を作った監督は荒木とよひさ。「四季の歌」「哀しみ本線日本海」「時の流れに身をまかせ」などのヒット曲の作詞家で、CMソング、校歌の作詞や、音楽プロデューサー、ライヴ活動などでも活躍する、プロの音楽の世界の人だ。
 彼の詞の多くを作曲している三木たかしが、渡辺匡という本名で、店専属のピアニストとして出演し、台詞の多い役を演じているのも面白い。映画の音楽監修も彼である。
 この店の主のような客である津川雅彦、専属ピアニストの弟子である若いサックス奏者の加藤大治朗、元検事の客の小林桂樹、シングルマザーの歌手の真矢みき、女性店員の栗山千明と真由子などなど、実に多くの登場人物たちの人生が、店内で交錯していく。
 正直いって、ややラフなエピソードなどが、なくもないのだが、背後にいつも流れている、何曲ものいい録音(志満順一)のジャズの演奏が、ドラマを太い糸でつないでいくという効果が、とてもいい。
 こういう独立プロが作った、面白い大人のエンタテインメント映画を、大手映画会社はなぜ大切な商品として配給上映して、全力を注いで大ヒットさせようとはしないのだろう! 

 

杉並映画村通信 087 2004年01月掲載

 

 

杉並映画村通信ロマン・ポルノとピンク映画の合体

連載 第087回 

日本映画「ヴァイブレータ」

 

 「ヴァイブレータ」という日本映画が、とても面白い。「800 TWO LAP RUNNERS」「東京ゴミ女」の廣木隆一監督が、芥川賞候補となった赤坂真理の小説を、映画化した作品だ。尾上菊五郎と富司純子の娘である寺島しのぶが、演劇の世界で積みあげてきた名声を、まるでぶち破るように、素顔の自分をさらけ出して、31歳の女性の、フリーライターを演じる。
 東京の雪の夜のコンビニエンス・ストアで、身も心も疲れた彼女は、若い茶髪の長距離トラックの運転手に会う。この大森南朋の演じる、現代的で得体の知れぬくせに、妙に心優しい運転手にひかれて、そのまま彼女はその車に同乗し、新潟に向かうことになる。何度もおこなわれる、親密なセックス。お互いについての会話。他の車との無線交信。カー・ラジオの声。パット・ブーンや池田真理子の曲が、窓外に流れる風景とともに鳴る。
 簡潔な字幕として出る、ヒロインの心の本音。雪の街を走るトラックを、ヘリコプターが空から追う。デジタル・ビデオ撮影の画面が、自由な視点から自在に、それを映像化していく。シナリオを書いたのは、「赫い髪の女」「遠雷」「KT」の、荒井晴彦である。日活ロマン・ポルノ映画で、数々の秀作を書くところから、スタートしたライターだ。
 また監督の廣木隆一は、「800 TWO LAP RUNNERS」以前は、ピンク映画の分野で、冷めた独特の演出で、多くの妖気ただよう秀作を作ってきた実績をもつ。これは、この2人の初めての合体が生んだ、日本映画なのである。
 日活ロマン・ポルノとピンク映画の映像スピリッツと、独特のエロティシズム表現が合体して、寺島しのぶというヒロインと、大森南朋のヒーローを得て、生まれた新しい映画。デジタル・ビデオ撮影の自由さが、それにひときわ面白い、自由奔放な表現力を与えた。
 現代的なテーマをつきつきめた作品を、安く早く映画を作るという条件を逆転させて、ユニークに映像化してしまうという方法。それが確実に、この作品にはあった。

 

杉並映画村通信 088 2004年02月掲載

 

 

杉並映画村通信映画の世界における差別

連載 第088回 

前号の私の文章のタイトルについて

 

 映画の世界における差別とは、いったいどんなことであるのか、ということを時々、考える。例えば、東京・神田の岩波ホールで上映されるような作品というのは、いつも定評のある、保証つきのいい映画である、というような考え方がある。
 その反対としてあるのが、今はもうなくなってしまったが、日活ロマン・ポルノ映画とか、あるいはこちらはなおも頑張っている、ピンク映画と呼ばれるような分野の作品は、いずれもくだらない、ダメな映画である、といったような考え方である。
 もっともらしい芸術映画や社会派映画のようなものだけを上映する、と思われている、いわばエリート的なミニ・シアターでやる作品というのは、いつも必ずいい。
 セックスをテーマにして、安く早く映画を作ってしまう、日活ロマン・ポルノやピンク映画というような分野の作品というのは、いつも必ずダメで、ろくなものはない。
 実はそんな考え方こそが、差別そのものではないのか、と常々私は思っているのである。少々大胆にいってしまうならば、岩波ホールでやる映画も、日活ロマン・ポルノやピンク映画の作品も、まず大多数は面白くない、あってもなくてもいいような作品である。
 そしてそのどちらの中にも、ごく少数の面白い、ユニークな作品というものがあるのである。それは別に、映画だけのことではないであろう。小説の世界でも、絵画の世界でも、音楽の世界でも、同じことであろう。
 芸術映画や社会派映画を標榜しているような作品にも、愚作が多く、ポルノやピンクというタイトルのついた作品にも、その条件を逆手にとって製作されたような少数の傑作が、ある。いわば当たり前のことなのだけれども。
 前号に「日活ロマン・ポルノとピンク映画の合体」という題の文章を書いたら、「『新コスモス』の読者には、刺激が強すぎるのでは?」という意見などが、あったそうなので、そんな差別観をなくすためにも、念のため。

 

 

杉並映画村通信 089 2004年03月掲載

 

 

杉並映画村通信3本の面白い日本映画の共通性

連載 第089回 

犬童一心監督の「ジョゼと虎と魚たち」 成島監督の「油断大敵」 山川元監督の「東京原発」

 

 ミニシアターで公開される日本映画に、いろいろと面白いものが出てきている。昨年公開でヒットし、えんえんとロングランが続いている、犬童一心監督の「ジョゼと虎と魚たち」が、まず面白い。田辺聖子の小説を映画化した、池脇千鶴の身体に障害をもった不思議な個性の女性と、妻夫木聡の気弱な現代の若者の、奇妙なラブ・ストーリーだ。

 ぶっきらぼうで、ぶあいそうな監督の映像造型が、とても効果的で、観客が自分自身の感性で、この現代的なラブ・ストーリーを、自分流に読み解いていくうちに、心身ともに爽快になれる、といったタイプの映画だ。
 

「笑う蛙」のシナリオ作者だった成島出が、初めて監督して作った映画「油断大敵」も、面白い骨太な現代的な人間ドラマである。実際に刑事だった人物の書いた、実録的なエッセイ集を、自由に脚色して作られた、柄本明の初老の名人泥棒と、役所広司のもっさり型の中年刑事の、虚々実々の関係を描く、人間喜劇である。
 大ヴェテランの泥棒に、刑事が人間と社会について学習させられる、という構造のドラマなのも面白いし、この2人の人生を重ねて、日本人の自立を描く、というテーマをうち出した映画作りも、とてもいい。

 山川元監督の「東京原発」という作品も、悪くない。役所広司のカリスマ的な東京都知事が、幹部職員を都庁の会議室に招集して、「都財政をどん底から救うため、東京に原発を誘致する!」と宣言して、一同をアッと言わせるというお話である。
 その問答を通じて、日本の原発政策の諸矛盾が、逆説的に笑い飛ばされていくのが、なかなかに痛快である。東京ロケーション・ボックスと提携して、都庁の一部にロケしているのも、リアリティを出して効果的だ。まあ構造がやや単純で、あまりお金のかかっていない作品では、あるのですが。
 日本映画の新しい流れは、どうやらミニシアター公開の小規模作品から、とても面白い形で、生み出されつつあるようだ。

 

杉並映画村通信 090 2004年04月掲載

 

 

杉並映画村通信変わっていないアメリカ人

連載 第090回 

「ロスト・イン・トランスレーション」

 

 「ラストサムライ」も「たそがれ清兵衛」も、アカデミー賞受賞を逸してしまったのだけれども、今年のアカデミー賞には実はもう1本、オリジナル脚本賞を得た、日本に関係のあるアメリカ映画というのがある。
 「ゴッドファーザー」や「地獄の黙示録」のフランシス・コッポラ監督の娘ソフィア・コッポラが、「ヴァージン・スーサイズ」につぐ2本目の作品として、自分の脚本で監督した映画「ロスト・イン・トランスレーション」である。
 オール日本ロケで撮影され、町の名やホテルの名などが、全部実名で出てくるという作品だ。ビル・マーレイの演じる、ハリウッドの盛りを過ぎたパッとしない中年の性格派スターが、CM撮影のために、東京にやってくる。

 

 そして、同じホテルに泊まっている、忙しいアメリカ人の若い写真家の妻で、時間をもてあましている素直な若いアメリカ人女性と、そこはかとない心の交流をもつ、という話である。「バーバー」「真珠の耳飾りの少女」のスカーレット・ヨハンソンが、そのヒロインを演じている。
 これがまるで、成瀬巳喜男監督や山田洋次監督の作品からでも学んだような、日本的な心境物風のアメリカ映画(?)とでもいうような映像表現をおこなった一作なのである。それがオリジナル脚本賞受賞の、ゆえんでもあろうか。
 ただし、オール・ロケーション撮影でその背景となっている、日本の描写というのが、いかにもひどい。旧来のアメリカ映画によくあった、古い日本観そのものなのである。
 アメリカと外見は全く同じ、現代文明社会を作り、洋服姿も同じようなのに、心理構造も行動原理も違い、英語が通じず、話せる人間も、LとRの違いが発音できないという、変な日本人たちを、奇妙な異人種と見て、それを笑ってしまうという視点である。
 「ラストサムライ」の根底にも、裏返しの形であった、「アメリカ人の眼第一主義」の異文化理解、とでもいうべきなのか。アメリカ人というのは、まったく変わっていませんねえ。

 

杉並映画村通信 091 2004年05月掲載

 

 

杉並映画村通信95歳監督のシンプルな重厚さ

連載 第091回 

ポルトガル映画「永遠(とわ)の語らい」

 

 ゴールデン・ウィークに上映中の映画で、必見の1本が現れた。ポルトガルの、今年95歳で、現役の世界最高齢といっていいだろう、マノエル・ド・オリヴェイラ監督の、「永遠の語らい」(1時間35分)である。
 ポルトガルの大学の歴史学の教授である、まだ若い女性(レオノール・シルヴェイラ)が、7歳の娘(フィリパ・ド・アルメイダ)と、大きな客船で船旅に出る。インドのボンベイでパイロットの夫とおちあい、ヴァカンスを過ごそうというのだ。

 船はポルトガルを出て、フランス、イタリア、ギリシャ、トルコ、エジプトに寄港し、紅海を抜けてイエメンに行き、インドをめざす。そして、それらの国々のさまざまな歴史的な風物に接して、娘が素朴な質問をする。それに母親が、寓意に富んだ答えをする。
 それを通じて、西洋文明と異文化との衝突や交流の歴史が、実に面白くユニークに、検証されていく、という映画なのである。また2人の乗っている船のアメリカ人船長が、名性格俳優ジョン・マルコヴィッチで、彼が食事のテーブルに、3人の有名な熟年女性を招待する。
 乗客としてこの船に乗っている、フランス人の実業家カトリーヌ・ドヌーヴと、ギリシャ人の名歌手のイレーネ・パパスと、イタリア人の元有名モデルのステファニア・サンドレッリである。
 この4人がそれぞれの言語で語りあう、この世界と人間についての会話がまた、面白い。母と娘もそれに合流する。そしてそれから、思いもかけぬ現代的な事件が、突然に起るのである。低額予算で省力化された撮影条件を逆手にとって、かくもシンプルで重厚な映画を作ってしまった、95歳の知性の素晴らしさ!

 オリヴェイラ監督は、このあいだ日本にやってきた時、こう言ったそうである。「これが私の最後の日本訪問だ、なんていうことは、ありませんよ」と。このエネルギー!

※シャンテシネ1(日比谷)にて上映中(2004年5月現在)

 

杉並映画村通信 092 2004年06月掲載

 

 

杉並映画村通信ぎりぎりの勝負が生んだ力

連載 第092回 

黒木和雄監督の「父と暮らせば」

 

 黒木和雄監督が、「TOMORROW/明日」「美しい夏キリシマ」についで作った、戦争レクイエム(鎮魂)3部作の最後の作品「父と暮せば」が、いい。極めて正直にいってしまうと、「TOMORROW/明日」は、有名俳優たちをずらりとならべた、ホームドラマ形式の、ワン・アイデアの作品構造が、私はあまり好きではない。テレビ2時間物ドラマみたいで、衝撃力に欠ける。
 「美しい夏キリシマ」は、美しい映像とよく出来た画面のスペクタクルはいいのだが、それを支えるドラマが、もってまわり過ぎてくどくどとしていて、一貫性を欠く。たくさんの登場人物たちの整理も、不充分だ。これでは、確たるテーマを欠いた、自分史のムード・ドラマである。
 「父と暮せば」は、井上ひさしの、登場人物が2人だけの、4幕物の演劇を映画化した作品だ。原爆投下3年後の広島で、1人で暮らす被爆した娘(宮沢りえ)の家に、同時に被爆して死んだ父親(原田芳雄)が現れて、4日間にわたって会話をする、というドラマなのである。
 娘はそれによって、生き残ったことの後ろめたさと、死んだ人のことを考えると、自分は男の人を愛して、幸せな結婚などを考えてはいけないのだ、という思いを克服し、生きていこうとする決心をする、という話だ。
 娘の家が原爆ドームの中にあるという監督のアイデアを、美術の木村威夫が、ユニークに生かした、象徴性と日常性をあわせもったセット。宮沢りえと原田芳雄の、長ゼリフを演劇性を越えて、自由な映画的柔軟さにまで発展させた演技を、じっとよく動く視点からの長まわしで撮影していく、鈴木達夫のカメラ。鳥の声、虫の声、風の音などを静かに生かした、久保田幸雄の録音。どれもいい。
 そして、原爆の悲惨と、それによる深い絶望を、人間の日常的な会話の人間味あふれる力と、演じる俳優の柔軟な演技の持続力によって、何とか克服していこうとするドラマの構造が、生きている。低予算と短日数の製作条件と、演劇的なドラマの枠を逆手にとって、それ故にこそ生まれる人間的表現を映像でけんめいに打ち出してみせた、ぎりぎりの勝負の勝利である。

 

杉並映画村通信 093 2004年06月掲載

 

 

杉並映画村通信西部の自由人と新保守派の戦い

連載 第093回 

珍しい西部劇の新作「ワイルド・レンジ」

 

 「ワイルド・レンジ/最後の銃撃」という、アメリカの近頃珍しい西部劇映画が、なかなか面白い。監督・製作・主演したのが、ケビン・コスナー。彼は異色の西部劇大作「ダンス・ウィズ・ウルブズ」に、同じく監督・製作・主演して、アカデミー賞の作品賞と
 監督賞を得た実績をもっている。
 今度の新作は、老西部劇小説作家のローレン・ペインの原作を、今年54歳の脚本家クレイグ・ストーパーがシナリオ化し、製作総指揮して映画化したものである。大手映画会社はこの企画にのらなかったため、「ダンス・ウィズ・ウルブズ」と同じく、自分たちの独立プロ製作によって映画化を実現させた。
 しかし、ハリウッドの撮影所の恒久的な西部劇のオープン・セットは、久しく本格的な西部劇が作られなかったために、もうなくなってしまっていた。近郊のよく西部劇の撮影に使われていたいくつかの牧場も、住宅地に変わっていた。

 そこで主要シーンの撮影は、カナダのアルバータ州の大自然の景観と、そこに建てられたオープンセットを使っておこなわれ、この地の4つの牧場にロケーションされた。
 原題名は「オープン・レンジ」で、これは牧場をもたずに、大草原を自由に移動しながら、牛の群れを育てる牧畜のことをいう。ロバート・デュバルの老ボスをリーダーに、ケビン・コスナーの銃の名手であるカウボーイと、大男の料理人とメキシコ人の少年の4人が、この自由な牧畜をおこなう人たちだ。
 そして、新しく作られた町に、定住して牧場をもつ独裁的な牧場主が、保安官を味方につけ、住民を強圧して、この自由人のカウボーイたちと対決する、というドラマである。何やら独裁的な新保守派のアメリカ人たちと、自由人としての本来のアメリカ人の対決、といった寓意が感じられて、とても面白い。
 4人組が、犠牲を出し苦しい戦いをしながら、何とか勝つという決闘シーンが、この映画のラストの、クライマックスの見せ場になっている。

 

杉並映画村通信 094  2004年08月掲載

 

 

杉並映画村通信ゴビ砂漠に生きる、らくだの涙

連載 第094回 

記録映画「らくだの涙」

 「らくだの涙」という、モンゴルのゴビ砂漠で生きる遊牧民の一家と、彼等にとって大事な家畜である、らくだの関係を描いた記録映画が、なかなか面白い。国籍としては、ドイツ資本の映画なのだが、実はこれはミュンヘン映像映画大学の卒業製作として、作られた学生の作品なのである。
 作ったのは、モンゴル生まれのビヤンバスレン・ダバーと、イタリア生まれのルイジ・ファロルニだ。稚気愛すべき素朴な、面白い出来あがりなので、ドイツで劇場上映されてヒットし、世界配給されることになったという、1時間31分の作品である。
 まずカラー・ビスタサイズの横長大画面にとらえられた、モンゴル南部のゴビ砂漠の景観と、4世代でパオで暮らす遊牧民一家とらくだのユーモラスな生活が、とてもいい。そして、その一家の一頭のらくだが、白い毛の仔を生む。
 ところがなぜか、親らくだは仔を寄せつけず、歯をむいて暴れ、乳をやろうとしないのである。仔はそれでは、生きていくことができない。こんなことは、ゴビ砂漠の荒々しい大自然の中では、時々あることでもあるらしい。

  その時、遊牧民一家は遠い町から、一人のモンゴルの音楽家を呼ぶ。オートバイでやってきた彼は、馬頭琴をとりだして、ヒモでらくだのコブにぶらさげる。砂漠の烈風が、馬頭琴の糸を、かすかにかき鳴らす。
 それから音楽家は、やおら馬頭琴の演奏をはじめる。その素朴な音色が、荒涼たる砂漠の土の上に、ひろがる。すると――とまあその後は、映画を見てのお楽しみである。
 2人の学生が映画の作り方を学んだのは、アメリカの記録映画の父といわれる、今は亡きロバート・フラハティ監督の、「極北の怪異」(1922)と「アラン」(1934)という作品からであった、という。「現実の創造的劇化」、即ち「多少の再現的劇化は記録として許される」という、ドキュメンタリー映画の作り方である。

 

 

杉並映画村通信 095  

 

 

杉並映画村通信ロンドンで生きる貧しい外国人たち

連載 第095回 

イギリス映画「堕天使(だてんし)のパスポート」

 「堕天使(だてんし)のパスポート」という、イギリス映画の秀作が登場してきた。「マイ・ビューティフル・ランドレット」「危険な関係」「がんばれ、リアム」の、ステイーヴン・フリアーズ監督の作品である。「ラブ・アクチェアリー」の黒人俳優キウェテル・イジョフォーの演じる、ロンドンに不法滞在する貧しいナイジェリア人が、男の主人公だ。
 「アメリ」のフランス人女優オドレイ・トトゥが、イメージを一変させてリアルに演じる、トルコ人の貧しい移民で、パスポートを得てニューヨークに脱出するのを夢見ている娘が、女の主人公だ。男はロンドンの三流ホテルの夜勤のフロント係をやり、女は同じホテルで、昼に働くメイドをしている。
 そして家主には秘密にして、彼女がいない昼間のアパートで、夜勤の彼を眠らせている。しかし彼は2、3時間しか眠らずに、昼は車の非合法運転手をする。そんな2人に、移民局の役人たちが眼を光らせている。
 2人の友人は、ホテルの部屋を仕事場にしている黒人娼婦や、病院の霊安室で働く中国難民の男だ。こうした、貧しい非イギリス人たちの、ロンドンでの生活を描く視点が、とてもリアルで切迫感がある。
 ある日、ナイジェリア人の男の主人公が、客室の詰まったトイレで、何と切り取られた人間の心臓を発見するところから、このホテルで貧しい非イギリス人たちを対象とする、想像を絶する残酷な秘密のビジネスがおこなわれていることが、明らかになってくる。
 そして男女の主人公の身の上に、のっぴきならぬ形で、それが深いかかわりをもってくるのである。2人の主人公は、果たしてこの環境から、脱出できるのだろうか? 後半、少しお話が作られすぎているところもあるのだが、イギリス映画伝統のリアリズム描写で、疎外(そがい)された人間たちのロンドンでの、どん底の生活を描く眼が、ユニークである。あまり話題にならぬ、こうした地味な秀作を、発見するのも、映画を見る喜びの一つだ。

 

杉並映画村通信 096 2004年10月掲載

 

 

杉並映画村通信幕末の地方子藩の下級武士

連載 第096回 

山田洋次監督「隠し剣 鬼の爪」

 

 山田洋次監督が、「たそがれ清兵衛」についで2年ぶりに、時代劇映画の新作「隠し剣 鬼の爪」を完成させた。前作と同じ藤沢周平原作の、「隠し剣 鬼の爪」と「雪明かり」の2つの短編小説からの映画化である。
 時代も場所も前作と同じ、幕末の東北の小藩海坂藩の、下級武士の話である。父親がある事件の責任を負って、詰め腹を切らされ、小禄となった家の平侍の主人公(永瀬正敏)と、その家に奉公にきていた貧しい百姓の清楚な娘(松たか子)の、身分を越えた心の交流が、作品を貫く縦糸となる。
 一方、はるか遠い藩の江戸屋敷につとめる、主人公の友人で、剣の腕を競った男(小澤征悦)が、謀反発覚という理由で、罪人として国に護送されてきて、山奥の座敷牢に入れられる。そして脱獄して、百姓親娘を人質に民家にたてこもる。
 旧体制維持派の家老(緒形拳)とその一味は、主人公に討手となることを命じる。幕末の地方の小藩の下級武士は、人を斬る実際の殺し合いを知らない。そこで彼は、今は引退して百姓となっている、剣の師(「たそがれ清兵衛」の田中泯)を訪ねる。
 時あたかも藩は、江戸から西洋知識のある教師の若侍を呼んで、洋式砲術を藩士に学ばせている。「たそがれ清兵衛」よりも、登場人物たちの会話の東北訛りを強調し、日本式兵法しか知らぬ藩士たちの右往左往ぶりを、戯画化してみせる映画作り。
 封建時代を描く演出の様式性が、「たそがれ清兵衛」よりもさらにぐっと弱まり、ドラマの展開がセリフと状況描写の説明だけによって進行していく、フラットさ。山田時代劇の2作目は、いかにも「男はつらいよ」シリーズの作者らしい、平明なパターンの2時間12分の長いドラマになった。
 それが最後の、二段構えの殺陣のシーンの見せ場で、かなりの盛り上がりをみせるのが、見所である。「隠し剣 鬼の爪」とは何であったのかが、うまく使われる。しかし、幕末の地方小藩の下級武士の置かれた、歴史的な位置というものの描出は、前作よりもさらに弱い

 

杉並映画村通信 097 2004年11月掲載

 

 

杉並映画村通信奇妙で巨大な動く城は宙に浮く

連載 第097回 

「ハウルの動く城」

 

 「もののけ姫」と「千と千尋の神隠し」についで、宮崎駿監督がスタジオジブリで作った長編アニメーション映画の新作、「ハウルの動く城」を見た。1時間59分の作品である。
 イギリスの女性児童文学作家ダイアナ・ウィン・ジョーンズの原作小説、「魔法使いハウルと火の悪魔」(徳間書店)の、映画化である。
 時は20世紀初頭とおぼしき頃。所はアルプスの山々の望める、ヨーロッパのどこかの国だ。ソフィーというひかえめな、帽子屋で働く18歳の少女(声は倍賞千恵子)と、巨大で奇妙な動く城に住む、若くて美しくてナイーブな魔法使いの青年ハウル(木村拓哉)との、恋と冒険のお話が中心となった映画である。
 少女ソフィーは、荒地の魔女(美輪明宏)に呪いをかけられて、何とお掃除の大好きな90歳の老婆にされてしまい、魔法使いハウルの城に住み込むことになる。
 この国は他のどこかの国と戦争をしていて、町の上空では両軍の飛行機がいつも飛びかって戦い、町には爆弾が雨あられと、降りそそぐ。そして魔法使いの青年ハウルは、変身して空を飛んだりして、どうやらそれをやめさせようとする仕事を、やっているらしい。
 これは「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」につながるような、数多くのキャラクターが登場して、多重エピソード型のドラマを展開していく、ちょっと神秘的な人間教訓劇、とでもいうべき作品である。
 そして映画「ロード・オブ・ザ・リング」や「ハリー・ポッター」両シリーズにもつながるような、神話的な伝奇ドラマでもある。
 ただし、日本独特の歴史的風土に根ざして成立していた「もののけ姫」と「千と千尋の神隠し」にくらべると、この「ハウルの動く城」は、無国籍的で根無し草的で、ロマンと教訓がいささか宙に浮いてしまっているのが、とても気になる。
 「ハリー・ポッター」シリーズの原作本の売れ行きが、頭打ちになっているらしい、現状とも通じ合うかのように。

 

杉並映画村通信 098 2004年12月掲載

 

 

杉並映画村通信107人が証言する殺人事件の謎

連載 第098回 

大林宣彦監督の「理由」

 

大林宣彦監督が、35ミリの映画フィルムと、ビデオによる撮影を併用して、「理由」という2時間40分の異色作を作った。宮部みゆきが朝日新聞に連載した、直木賞受賞の型破りの構想の小説の映像化である。
 1996年の9月、江東区深川の交番の巡査(村田雄浩)のところに、一人の少女(新人寺島咲)があることを通報してくる。それをきっかけにこの映画は、その2か月前に荒川区内の北千住にある超高層マンションで起こった、4人家族惨殺事件のことを描いていく。
 そのマンションの管理人(岸部一徳)や、119番の電話をかけた住人(大和田伸也)が、その日のことをカメラに向かって証言し、同時に事件の時のシーンが再現される。こういう形でこの作品は、何と107人の俳優たちが演じる関係者の証言をつうじて、この事件の真実を探っていくのである。
 俳優たちはノーメークアップで、その役を演じる。まるでテレビのドキュメンタリーに出てくる人のように。そしてテレビの再現ドラマのように、事件が起こった時のことが演じられていくのだ。まるでテレビカメラが、それを追っかけてでもいくような形で。
 やがて意外なことに、惨殺された一家4人の家族は、実はまったくの他人同士で、そのマンションの部屋の住人は、なぜかいれかわっていたことが、判ってくる。それには「競売」とか、「執行妨害」とか、「占有屋の存在」といったことが、からんでいることも。
 こうして、何組かもの家族や個人の人間関係をつうじて、現代日本の奇妙で不条理な現状というものが、この事件を中心にだんだんと、浮かびあがってくるのだ。それらのことの総体を、大林宣彦監督組の映画のカメラが、スケール大きくとらえていく、という形で。
 この作品は、まずハイビジョン転換版がWOWOWでテレビ放映され、35ミリ映画フィルム転換版が映画館で上映される、という公開方法が、とられた。両方を見くらべると、また別種の面白さが生まれてもきそうである。
※12月18日新宿武蔵野館

 

杉並映画村通信 099 2005年01月掲載

 

 

杉並映画村通信ドキュメンタリーから劇映画へ

連載 第099回 

原一男監督の「またの日の知華」

 「ゆきゆきて、神軍」「全身小説家」という、異様な迫力をもった長編ドキュメンタリー映画を作ってきた原一男監督は、かねて「次は長編劇映画を作ってみたい」と言っていた。そして11年ぶりに作ったのが、この1時間54分の劇映画「またの日の知華」である。
 製作とシナリオを担当したのは、原監督の私生活上のパートナーであり、前二作の製作者でもある小林佐智子。四つの章とエピローグから成りたった映画で、同じ一人のヒロインの知華を、4人の別々の女優が演じるという、異色の構成の作品になっている。
 第一章の安保闘争の頃のヒロインが吉本多香美。第二章の連合赤軍あさま山荘事件の頃のヒロインが渡辺真起子。第三章のゲリラ・グループの若者が活動する時代のヒロインが金久美子。そして第四章の場末のバーで働く時代のヒロインが桃井かおりだ。
 それにヒロインの息子の吉岡秀隆の登場する、エピローグがつく。四つのエピソードの相手役はそれぞれ、田中実、田辺誠一、小谷嘉一、夏八木勲である。ヒロインの結婚と出産。夫の病気とヒロインの不倫。ヒロインの教え子だった若いゲリラのメンバーとの出あい。日本海に浮かぶ男の故郷の島への流浪。そして死と次世代の息子の登場。といった、四部構成とエピローグから成っている。
 各エピソードに、背景となる土地の、土俗的な行事が、とりいれられたりもする。しかし見終った印象は、正直にいうと、大学映研が作ったビデオ実験ドラマ(?)、とでもいった、青くさい、初歩的な劇映画であった。残念ながら、「ゆきゆきて、神軍」「全身小説家」のような、熱気もなければ迫力もない。
 原監督が11年間も記録映画を作れなかったのは、どうやら破天荒な時代が終わって、日本に破天荒な人間がいなくなってしまった、ためなのかもしれない。それをのり越えて、迫力あるフィクションを作ろう、というには、シナリオが弱い。使われなかった、劇作家坂手洋二が書いたという第一稿シナリオ、「わたしを探して」の方を、読んでみたい気がする。 

 

 

定期購読をお願いします。
定期購読料1年・1200円(送料720円)

投稿先も同じです

〒168-0074 杉並区上高井戸1-32-40
都政を革新する会・新コスモス編集部
郵便振替 00120-5-418390
電話 / FAX 03-3329-8813 Eメイル E mail E-mail

Toseiwo Kakushinsuru Kai