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新コスモス
 「月刊新コスモス」で連載中 1996年09月掲載開始
第001〜049号

INDEX

■ 001 日本映画「「男はつらいよ」 あなたにとって寅さんとは

■ 002 第一回投稿作品の発表 わたしにとって寅さんとは

■ 003 続いて投稿作品の発表 寅さんには濡れ場がない!

■ 004 新城せつこさんからの投稿 一度も見たことがありません

■ 005 新城せつこさんへのメッセージ 寅さん映画と『E・T』

■ 006 「寅さん」は死んでいない しょうがないのではないか?

■ 007 論理的な批判はやさしい! 「政治運動者の論理」

■ 008 私のヒガミというものか? 言葉の論理と本音の心情

■ 009 日常に侵入する寅さん 寅さんに対する恐れがない!

■ 010 寅さん映画の喪失の次には? 「失楽園」と「うなぎ」

■ 011 この連載もそろそろ閉幕? 日本人が好む映画の内実

■ 012 タテマエ論ではなくて 「失楽園」と「うなぎ」の考察

■ 013 明らかに変化しつつある 映画の中の時代を読む

■ 014 時代の声を読み解こう 映画の映像は現代を証言する

■ 015 必見のアメリカ映画 「エアフォース・ワン」

■ 016 世界の政治状況を読む セブン・イヤーズ・イン・チベット

■ 017 見るべきお正月映画 「阿片戦争」をどう読む?

■ 018 思考の老いは行動をパターン化する 久しぶりの投書ですが

■ 019 映画をどう読み自己論理化するか? 最新作「アミスタッド」

■ 020 アメリカ映画人の願望 「タイタニック」が意味するものは?

■ 021 アメリカがちょっとやばい 生気のない「話題作」--「恋愛小説家」「ジャッキー・ブラウン」

■ 022 論理性を欠く感情論 東條英機が主人公の映画  「プライド運命の瞬間(とき)」

■ 023 若者が疾走する映画 「アンラッキー・モンキー」

■ 024 楽しくなければ福祉じゃない 福祉映画祭 in NAGOYA

■ 025 長い徒労の時間を描いた映画 9月公開「愛を乞うひと」

■ 026 戦場の臨場感の背後に郷愁が 「プライベート・ライアン」

■ 027 入念なアナクロニズム 「カンゾー先生」と「時雨(しぐれ)の記」

■ 028 寅さん映画の時代が終わって… 山田洋次監督「学校V」

■ 029 イランの映画が持つ迫力 一月公開の新作「りんご」

■ 030 「踊る大捜査線」のヒット フジテレビが製作映画「踊る大捜査線 THE MOVI」

■ 031 長い長いイライラと不安 「スネーク・アイズ」

■ 032 日本兵たちが死んでいく 「シン・レッド・ライン」

■ 033 99年アカデミー賞授賞式 エリア・カザンへの非難

■ 034 赤狩り旋風の中で ベルトルト・ブレヒトの場合

■ 035 人間不在の空虚な絵空事 「スター・ウォーズ」の新作が詰まらない!

■ 036 今の日本に充満する怨念 映画「鉄道員(ぽっぽや)」大ヒットの意味は?

■ 037  古典的教養人キュープリック 「アイズ ワイド シャット」

■ 038 それは時代の空気を証明する レンタル・ビデオのベスト10。「インディペンデンス・デイ」「スピード」「ミッション・インボッシブル」「セブン」「ディープ・インパクト」「もののけ姫」「フィフス・エレメント」「ダイハード3」「12モンキーズ」「ザ・ロック」

■ 039 どの陣営にもよくある現象 「金融腐触列島/呪縛」

■ 040 現代日本をシンボライズ 「M/OTHER」

■ 041 大島渚監督13年ぶりの新作 「御法度」をどう読み解く?

■ 042 現在の風潮反映する時代劇 「雨あがる」と「御法度」と

■ 043 たった一人のフロンティア 老人が中古トラクターで大陸横断。「ストレイト・ストーリー」

■ 044 混乱と焦燥とカルト 必見の三本のアメリカ映画。「マグノリア」「グリーンマィル」「アメリカン・ビューティー」

■ 045 癒しの人間群像ドラマ 「グリーンマイル」に客席の号泣

■ 046 苦悩の果ての人間主義の復権 「エリン・ブロコビッチ」と「インサイダー」

■ 047 人間主義復権の映画第三弾 アメリカ映画「ザ・ハリケーン」

■ 048 溺れず酔わずしたたかに! 「ザ・ハリケーン」をめぐるアメリカ映画群

■ 049 発掘された音楽の記録 ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ

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■ 050 ■ 099 050--099

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■ 100 --連載中 100〜最新号

 

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■ 001 -- 最新号 総目次ページ

杉並映画村通信 001 1996年09月掲載開始

 

杉並映画村通信あなたにとって寅さんとは

連載 第001回 

「男はつらいよ」

 

 この『新コスモス』に、映画の連載をスタートさせることになった。「杉並区に住んでいる映画評論家なのだから、ぜひやってほしい」ということらしいのだが、この革新系の議員さんたちの出している、こむずかしい(?)政治新聞に、映画のことなんか書いても果たして読む人がいるんだろうか?
 そう言ったら「だから、白井さんの連載をいれて、もっと軟らかさをだしたいんです」とのことである。なるほどねえ。しかし、この新聞に他の新聞や雑誌でやるような、ただの映画の評論などをのせてみたところで、あんまり意味がないような気もする。そこで、ちょっと変わったことをスタートさせることにした。
 映画「男は、つらいよ」シリーズ四八本でおなじみの、寅さんを演じた俳優渥美清が、亡くなった。あの「男はつらいよ」シリーズ映画、そしてそのシンボルのような存在である寅さんこと車寅次郎とは、あなたにとって何であったのか?というテーマを、この新聞の読者のみなさんに、提出したい。
 それに対して、ハガキ(スペースがないので手紙は認めません)に、あなたの「意見」を書いて、投稿して下さい。虫メガネが要るような小さな字で、えんえんと書くのも、認めません。あなたの「意見」を、俳句か短歌でも書くように、短く一言でまとめて投稿して下さい。「思い出してもなつかしく、悲しい……」なんていう文章もダメです。そういう「後ろ向きの、追想の感傷的文章は、他の新聞や雑誌にたくさんのっています。「私にとって、寅さん映画とはこういうものだった」という、前にふみ出した「自分なりの論理」を、自分の生活に根ざして書いてください。
 「寅さんの映画なんて見たことない」なんて人も、困ったものですねえ。日本の大衆のアイドルを知らずして、日本で革新運動をやろうと思っているんですか?

お兄ちゃん! また行ってしまうの?

投稿は、〒168-0074 東京都杉並区上高井戸1-32-40 新コスモス編集部気付 「白井佳夫の杉並映画村通信」あてにどうぞ。

 

杉並映画村通信 002 1996年10月掲載

 

杉並映画村通信第一回投稿作品の発表

連載 第002回 

わたしにとって寅さんとは

 渥美清が亡くなったことで、四八本で終了した「男はつらいよ」シリーズ映画。そしてその主人公であった寅さん。それはあなたにとって、いったい何であったのか?ということをこの「新コスモス」の読者に、ハガキによる短文投稿、という形で呼びかけた、その応募作品の発表第一回目である。
 第一回からそんなに投稿があるわけもない、という読みから、この「革新議員通信」でもある「新コスモス」の編集委員、長谷川英憲さんに「自らの第一号投稿」をお願いしておいたのだが、

「ギリギリまで考えたのだが、今回はもう一つ言葉が出てきません!」

とのことで、逃亡(?)されてしまった。では必ず次号での投稿を期待することにして。
 「そこはかと我が町に住む寅次郎。合掌」という投稿が、杉並区の清水早苗さんからとどいた。なるほど。あなたの意見を、俳句か短歌でも書くように、短く一言でまとめてください、というお願いが、こういう形で返ってきた。七四才のかたである。なるほど、なるほど、そうなのでしょうなあ、という感じである。次はどなたかの、川柳風の一句などを期待したいところ。

 「毎年、正月になるとついつい見てしまう。このマンネリズムがこわい。しかもどれも手抜きせず『よく出来ている』のが、あぶない。殺人も犯罪も闘争もない。『安全地帯』。このシリーズは、既成の秩序を決して揺るがさないことによって、体制に貢献していると思う」

というのは、ペンネームの杵好羊一さん。

 「刑務所内で在監者向けに一番多く上映される映画は寅さんシリーズ。やっぱり反抗心を殺(そ)ぎ、人をまるめこむのに最適の映画じゃないか、と思います。だから、反発:好感=9:1のアンビバレンツ」

というのは、葛飾区小菅の十亀弘史さん。
 だんだんと、面白くなってくる、という感じがするなあ。このへんからエンジンをかけて、他のかたがたも旺盛なチャレンジを!

 

杉並映画村通信 003 1996年11月掲載

 

杉並映画村通信続いて投稿作品の発表

連載 第003回 

寅さんには濡れ場がない!

 さて今回は「男はつらいよ」シリーズ、寅さん映画とは、いったいあなたにとって何であったのか?をハガキによる短文投稿で答えてもらうシリーズの、発表第二回目である。いつもこの「新コスモス」に顔写真とともに登場してくる、長谷川英憲さんの答えが、やっともらえたので、さっそく活字化しよう。

 「寅さんみたいに生きられたらいいな――誰しもが抱く願望だと思う。だから『永遠』であり得たのだろう。でも、この『願望』は『希望』とは違う。
 希望には、現状の変革や破壊がつきものだから。寅次郎を愛している何千万もの人たちの中に(私もその一人かもしれない)、そのエネルギーが充満し、爆発することを、心から願うものだ」

 なるほど。寅さんの中にある、現状の永遠安定願望のようなもの、それに何となく心ひかれるものを日本人として感じもするのだが、それをあえて自分自身で断ち切らないと、「革新」的にはなれないなあ、という自省をこめた意志表明、というところでもあろうか。
 もう一通、東京都練馬区の植木盛一さん(32才)のもの。

 「『新コスモス』楽しみにして読ませて頂いています。さて、わたしにとって寅さんとは何であるか?とくに何でもないと思います。この映画『悪者』が一人も出てきませんね。みんな『いい人』ばかり。町工場のタコおやじも『人のいい資本家』。コソ泥もすぐに反省して、教会で奉仕活動なんかやっちゃう。『ホントかよ?』という感じ。濡れ場がない、というのも不満である」

 なるほど、なるほど。「濡れ場がない」でしたねえ、ついに一本も。寅さんとは、『変革』とも『セックス』とも無縁の人、何にもしないことに意味のあった人(?)だったのかもしれません。さて次回は、新城せつこさんあたりに、投稿をいただきたい感じである。

 

杉並映画村通信 004 1996年12月掲載

 

杉並映画村通信新城せつこさんからの投稿

連載 第004回 

一度も見たことがありません

 新城せつこさんからの待望の投稿があったので、まず活字化しましょう。

「ついにというべきか、とうとうというべきか、白井さんからご指名がかかってしまいました。考えてみても、出てくるはずがありません。私は寅さん映画を一度も見たことがありません。テレビでの放映では見ているはずなのですが、ほとんど覚えていないのです。これからいえることは、わたしにとって寅さん映画は全く興味のわかない存在だといえます。なぜかという点について考えてみようと思いました。
(1)東京下町の風情(ふぜい)がどうの、下町の人情劇だなどといってもやはり、下町という言葉そのものが東京性の現れです。私の育った沖縄の方がもっと豊かだ、という自負があるからでしょうか。
(2)寅さんは世代でいえばずっと上になります。この映画を見る人もやはり、世代的には中高年の世代だと思ってきました。ですから私には無縁です。ただ考えていてもっと若い世代は一体どうだったのだろうかという疑問が沸いてきます。非常に一面的なとらえかたですが、限界です。」

 なるほど、まことに明快な「無縁」宣言(!)です。私はこの通信の第一回に、「寅さん映画なんて見たことない」なんて人も、困ったものですねえ。日本の大衆のアイドルを知らずして、日本で革新運動をやろうと思っているんですか?と書きました。これは実はこの連載の大問題でもあるのだろう、という気がします。
 「下町という言葉そのものが東京性の現れ」で「沖縄の方がもっと豊かだ」という自負もよくわかります。しかし現代の日本というのは、そういう寅さん映画の「下町の人情劇」ムードみたいな普遍的ローカリズム、実はどこにもありはしない「日本的な内閉ヒューマニズム」みたいなものが、まんえんし、はびこってしまっていることこそが、大問題なのではないのでしょうか?皆さんのこの議論への参加を切望します。

 

杉並映画村通信 005 1997年01月掲載

 

杉並映画村通信新城せつこさんへのメッセージ

連載 第005回 

寅さん映画と『E・T』

 飛鳥田一雄さんが委員長だった時代の、社会党の党大会が東京の九段会館でおこなわれた時、私は開会のスピーチをたのまれて、「寅さん映画と『E・T』が大人気を得ているような世の中は、よくない世の中である」という話をしました。「馴れあいの日本的人情喜劇」と「宇宙人・人類みな兄弟」といったようなムード的平和映画が流行する世の中の風潮は、どうもよろしくないのではないか、と思っていたからです。
 安易な馴れあいのヒューマニズムが蔓延(まんえん)する世の中は、総てのことにちゃんとした論理的な結着をつけようとせず、人間の闘争心を骨抜きにし、あらゆることをナアナア主義のアイマイさの中にとりこんで腐らせます。それは「あの悪名高いオウム真理教を抑えこむために」「社会党の委員長時代の、内閣総理大臣だったあの村山さんが苦渋の決断をもってやったことなのだから」といったムード作りで、破防法の団体規制適用を通してしまいかねない、現代日本のいやな危(あや)ういムードにも、そのままつながってくるような、ものでもあるのだろうと思うのです。
 「男はつらいよ」シリーズ映画を、自分にとってはイヤなもの、ユーウツなものであっても、あえて正視して「寅さん的なるもの」と正視し、それを自分なりに論理的に解体し、その正体を見きわめようとすることこそが、真の意味での政治運動をやろうとする者が、とるべき態度ではないのだろうか、と私は思っているのですね。
 新城せつこさんは「寅さん映画は全く興味のわかない存在だ」「私には無縁です」と自分が感想をもらしたことに、そんな理屈をいわれても、とあるいは絶句なさるのかもしれないのですけれども。私の考えかたというのは、歯に衣着せずに表現すれば、そういうものなのです。「無関心は罪である」「だから日本の革新運動は、地道に日本の現状を打開できないのだ」という風に、私は考えてしまうのです。

 

杉並映画村通信 006 1997年02月掲載

 

杉並映画村通信「寅さん」は死んでいない

連載 第006回 

しょうがないのではないか?

 「僕も新城さんと同じく『寅さんには興味がない』『無縁』と思っていた一人です。先日、朝日新聞に山田監督が葛飾柴又を訪ねるという企画が載っていました。くり返しリフレインされる『寅さん』。たしかに渥美清は死んだが『寅さん』は死んでいない。よくよく見てみると、しっかり生きている『寅さん』的なもの。
 白井さんは、この正体を見きわめろという。これまでの投書を見て感じるのは、現状打破ではなく、現状肯定であるということが、一つの鍵だと思うのですが。」

――相模原市/芦田佳幸/38才)

という投稿がありました。おっしゃるとおりで「寅さん」は死んでいない。「寅さん」的なものは、しっかり生きている。そしてもちろん、その根底にあるのは「現状肯定」です。しかもそれは、ひとすじなわではくくれない、不思議な「現状肯定」なのです。

 「寅さん映画には白井さんのいうように、おかしなところがある。しかし山田監督は善意であの映画を作っているんだと思う。そうである以上、それにあんまり固苦しい批判をしてみても、しようがないのではないでしょうか」

という意見があります。

 

「山田監督のやっている、寅さん映画的ヒューマニズムのたぐいは、私たちがはるか前に全面否定したはずのものである。今さらああいう低徊(ていかい)趣味に文句をつけてみても、しようがないのではないでしょうか」

といった意見が、もうかたほうにあります。
 両者「しようがないのではないでしょうか」というところで、みごとに一致」してしまっているところが、私には何とも実に不気味に思えます。「論理的な現状肯定」であるのならば、「論理的な批判」もできるのだけれど、これではコンニャク問答です。そしてこの「コンニャク」のような、実に日本的なる「何か」こそが、「現状革新」を考えるものにとっての、大問題なのではないでしょうか?

 

杉並映画村通信 007 1997年03月掲載

 

杉並映画村通信論理的な批判はやさしい!

連載 第007回 

「政治運動者の論理」

 

 「寅さんが、なぜ嫌いなのか」について書いた、投書がきました。

「一番の理由は『寅さん』の中に、女性が一人も出ていないことです。確かに『さくら』はじめ、女優が演じている役柄はいろいろ出てはいます。しかしそれは、マドンナを筆頭に妹であり、おばちゃんであって、すべて男性によって規定された役割を持つ存在でしかありません。一見、男性に頼らない自立した女性であるかのように見える『リリーさん』も、結局『聖なる娼婦』と規定される存在だと思います。」
 そして、女性をそう規定する側として、実は男性のほうも規定されているわけで。
 「自立した存在としての男性も、存在できなくなっているのが、『寅さん』の世界だと思います。結局、役割は存在しても、人間の存在しない映画ではないでしょうか。」

(江東区/小笠原和雄)

 なるほど、なかなか理路整然とした否定論で、つけ加えることは何もありません。しかし、それなのになお、なぜ絶対多数といってもいいような日本人が、あんなに「寅さん」が好きで、あれこそが最も人間的な映画だ、などと思って眼に涙を浮かべてしまったりするのか?
 問題はそこでしょう。「男はつらいよ」映画の否定などというのは、論理的にはそう難かしいことではないのです。今回かかげた三段論法も、論理としてはみごとな位、「寅さん」映画の問題点をついています。
 けれども、「インテリの論理」で、「政治運動者の論理」で、みごとに斬ってすてればすてるほど、このあたりの実に日本的な事の本質は、ヌルヌルと抜け落ちてしまうのです。
 革新の論理が、声高に叫ばれて、それが論理的正当性を明らかにすればするほど、選挙をやるたびに保守陣営が勝ってしまう、といった大問題の鍵も、またそのあたりにあるのかもしれない――と私は思います。

 

杉並映画村通信 008 1997年04月掲載

 

杉並映画村通信日常に侵入する寅さん

連載 第008回 

寅さんに対する恐れがない!

 三月号に投稿をのせた小笠原和雄ざんから、再論がありました。

 「本当に『論理で否定』するのは簡単です。必要なのは現状変革の行動だと思います。寅さんが好まれるのは、映画の観客がやはり、インチキな共同体から、自分の人間性の発展を抑圧されている人々であり、寅さんがそれからの一時的、幻想的解放を生みだす『放浪者』だからではないでしょうか。
 日本のような性的な抑圧の強い社会で、ポルノが蔓延するのと同じ構造です。ついでながら、日本の自称左翼の言葉が、寅さんほど支持を得られないのは、彼ら自身の多くもこのインチキ共同体に、屈しているからでしょう。『放浪者』の物語は同時に、共同体を離れた存在の悲惨さを強調し、人々をインチキ共同体の中にとどめる脅しであり、恐怖の映画です。寅さんが、けっしてハッピーエンドに終わらない理由です。
 心の中の検閲官、つまりインチキ共同体への『自主的な屈服』の強制を打ち破るためにも、寅さんで満足してはいけないのではないでしょうか。寅さんの幻想にひたるより、インチキ共同体をぶち壊したい、と思っています。」

 要約すると、以上のような主旨です。まことに論理一貫、みごとな分析、といってもいいのかもしれません。しかしその「一刀両断」がスパリと切れ味がよければよいほど、日本の現実の中に蔓延する「寅さん的なるもの」は、総て「敵」として向こう側に追いやられてしまってもいて、それを「わがこと」としては、諭じられなくなってしまっている。今や日本全体を占領してしまっている、「寅さん的なるもの」に対する恐れ、ことによると自分自身の日々の日常生活の中にも、ジワジワと侵入してきているのかもしれない「寅さん的なるもの」に対する自省的な恐れがない。それが何だか私には、寅さん映画よりも恐く思えもするのです。

 

 

杉並映画村通信 009 1997年05月掲載

 

杉並映画村通信言葉の論理と本音の心情

連載 第009回 

私のヒガミというものか?

 「男はつらいよ」シリーズ映画を見、その中での寅さんの言動に接すると、私はなぜか心が安まった記憶がある。かなりシンドい日々の政治活動に疲れた、身体と心に、それはまさに一本のビールに酔う程度の、やすらぎを与えてくれたのである。人間には、そういうものも必要なのかもしれない、とつくづく本音として思う。寅さんの映画には、私のやっている運動につながるような、テーマもなければ、論理もない。「男はつらいよ」シリーズ映画を見たことで、行動の指針を与えられたようなことも、ありはしない。しかし、あの映画のもつ日本的な、ムードにひと時ひたっていると、疲れが休まるのだ。
 それから後で、また元気をとりもどして、日常活動ができる。それでいいではないか、と私は割切っている。地域社会での活動にも、寅さん映画の話題は、役に立っている。そういう風に事をすすめないと、人の心の中には入っていけないものでもあるのである。世の中の大多数の人たちが、寅さん的な日本型の心情のコミュニケーションによって動いている以上、それはそれとして、有効に使ったほうがいいであろう。
 映画というものは、そういうものなのだと思う。それで、いいのではないか。大衆に服務する、ということもあるではないか。

 

 以上の文章は、私が書いたもので、投稿ではない。折にふれて政治運動をやっている一部の人たちの、口からもれ、心情として語られたことの、私なりの代弁である、とでもいうのが真実に近い(?)かもしれない。
 言葉の論理として書くと、寅さん映画批判になる人も、心の底には、案外こういう心情を持っているのではなかろうか、と私は思っている。そういう本音を、このコラムに投稿してくれる人がいるといいのだが――というのは、私のヒガミというものだろうか。

 

杉並映画村通信 010 1997年06月掲載

 

 

杉並映画村通信寅さん映画の喪失の次には?

連載 第010回 

「失楽園」と「うなぎ」

 「失楽園」と「うなぎ」という、二本の役所広司主演の映画が今、話題を呼んで上映中である。「失楽園」は、日経新聞連載中から読者を過熱(?)させた、渡辺淳一の不倫もののセックス小説の映画化で、映画も記録的な大ヒット中である。
 「うなぎ」は、カンヌ国際映画祭でパルムドール(最優秀作品賞)を今村昌平監督が受賞したことで、これまた話題を呼んだ。これは不倫をした妻を殺して十年の刑を受け、八年で仮出所した男が、千葉県の佐原で理髪店をひらく話である。
 同じ役所広司が演じる、「失楽園」の主人公と、「うなぎ」の主人公には、共通する性格がある。ともに喪失感をもった、現代日本社会に生きる中年男だ、ということである。「失楽園」の主人公である出版社のエリート社員は、窓際族となってしまい、黒木瞳の演じる人妻との不倫のセックスにのめりこみ、やがて心中死してしまう。
 妻を殺して八年間入獄し、仮出所した「うなぎ」の主人公は、喪失感をもってその後の人生を生きはじめる。そして、清水美砂の演じる自殺未遂の女を助けたことから、不思議な新しい人生を、生きはじめることになる。
 イデオロギーも、哲学も、宗教も人間のよりどころにはならなくなってしまったような現代にあって、人はいったい自分の喪失感を、何によって埋め、どう死んでいき、あるいは生きていくのか?
 「失楽園」と「うなぎ」は、そんな問いを見る者に投げかける、現代的な日本映画であるように思われる。渥美清の死によって「男はつらいよ」シリーズ映画が終ってしまった今、日本人は恐らく、「失楽園」か「うなぎ」を見ることで、その渇きを癒すことに、なるのかもしれない。
 さて、この二本の日本映画を見て、あなたはいったい何を、どう感じ、どんなことを考えたのか、投稿していただきたいと思う。

 

杉並映画村通信 011 1997年07月掲載

 

 

杉並映画村通信この連載もそろそろ閉幕?

連載 第011回 

日本人が好む映画の内実

 

 日本経済新聞連載中から話題を呼んだ渡辺淳一の小説を、映画化した作品がまた大ヒットした「失楽園」を、政治革新のための運動をやっている本紙の読者のかたがたは、ほとんど見ていないらしい。そんな風で、都議選はいったい大丈夫なのだろうか?とこれはまったく皮肉ではなく、まじめに思う。
 小説も映画も大ヒットしたのは、それが現代の日本に暮す人間の構成する社会のムードというものを、良くも悪くもみごとに体現しているからに他ならない。例えばの話、「そんなムードをこそ打破しなければ、革新は成らぬ!」ともし本当に思うのだったら、そのためにもこの映画と小説は、必見必読のものでもあるはずなのである。「敵を知らずして己を知るべからず」である。

 同じ役所広司の主演する、もう一本の映画「うなぎ」のほうは、見た人があったらしい。「『うなぎ』は、刑務所を出た人間の心の葛藤や不安がよく描かれていて、おもしろく見ました。同じ刑務所仲間の柄本明が秀逸で、主人公の心の一面を体現した存在です。愛情をこめた人間観察映画になっていると思います」(杵好羊一)という投書があった。
 なるほど、そういう「同感」で、この映画が面白かったというわけなのですか。映画なんぞというものは、その位の尺度でしか、見るものではない、という意志表明のようにも、きこえます。「男はつらいよ」シリーズ映画をとりあげた時もそうだったのだけれども、要するにまじめな政治革新のための運動をなさっているかたがたにとって、映画なんぞというものは、その程度の「ひまつぶしの、娯楽の時間」でしかないのだ、ということでもあるのかもしれない。
 一本の日本人に好まれた映画の「内実」には、今の日本の構造の核となるようなものが含まれて、それを「読む」ことをしなければ、現実の日本に革新の風穴をあけるための「方法」も読めないのでは、と思うのですが。

 

 

杉並映画村通信 012 1997年08月掲載

 

 

杉並映画村通信タテマエ論ではなくて

連載 第012回 

「失楽園」と「うなぎ」の考察

 

 新コスモス編集部から、「都議選の敗北」を、私が前々号紙上で指摘した「映画『失楽園』と『うなぎ』の<喪失感>」に重なる、世の風潮のせいかもしれない、というFAXがとどいた。なるほど。しかしそこに「突破口」をあけよう、というのなら、まずは問題の映画「失楽園」と「うなぎ」を見て、考えなければねえ。

 「白井さんは<喪失感>といいましたが、それは同時に、映画を見ている側の<閉塞感>でもあるような気がします」(相模原市・芦田佳幸)というハガキもいただいた。その通りだ、とも思います。ならば「失楽園」と「うなぎ」という映画の中にたちこめている、現代の日本人のそういう、心情というものを、あなたはどう打破して「突破口」をあけよう、、と思うのですか?映画の感想を自分の思想的心情のタテマエにのっとって、他人事のように「分析」するだけでは現状打破は、ならぬでしょうね。そういうく<喪失感><閉塞感>は、あなた自身の日常の中にも、充満してはいませんか?それを本当に「斬る」ことを考えたら、そんなタテマエ論に安住しては、いられないのではありませんか?
 「白井さんの挑発に乗って、『うなぎ』を見てきました」杉並区・斉藤真澄)というハガキもいただいた。「仮出所した役所広司を温かく包むという構図」に、「寅さん映画の喪失の次に来るもの」という問題提起は、「なるほどと思いました」よし。
 塀の中で「うなぎを飼う」という設定と、「うなぎを逃す時が、社会に入ってく時だ」という設定は「鋭いものだ」と「感心」したそうですが。その後が「なぜ、この映画が、カンヌ映画祭で賞をとったのでしょう」という結語になってしまうのは、いただけません。
 映画祭で「場内爆笑の大うけだった」理由を、あなた自身はどう考えるのですか?それを書くのが、本当の「感想」というものですよ。

 

 

杉並映画村通信 013 1997年09月掲載

 

 

杉並映画村通信明らかに変化しつつある

連載 第013回 

映画の中の時代を読む

 

 「『うなぎ』『失楽園』をめぐって、現代日本人の<喪失感><閉塞感>が指摘されていますが、裏返せば、そういう日常から逸脱することへの願望がある、ということになります。自分自身、『うなぎ』の主人公が『仮出所の身の上』という制約をふり捨てて、悪徳金貸し相手に大立ち回りを演じたときには思わず拍手喝采をおくり、『失楽園』の主人公がどんどん不倫の深みにはまるにつれ『なかなかやるわい』と思って見ていました」(杉並区/倉田直志/39才)という投稿がありました。「男はつらいよ」シリーズの寅さんは、全四八作品でいつも<同じこと>しかしませんでした。そしてその作品世界を支配しているのは、流血とか暴力といったものとは無縁の、<何もしないでいることの平和と安定>でありました。<庶民の人情>といった、疑似的なく<ヒューマニズム>をよりどころとした。
 しかし「男はつらいよ」の寅さんは、もう死んでしまいました。そしてそのあと大ヒットした日本映画「失楽園」のテーマは、不倫のセックスのエクスタシーへの徹底的な没入と、そのあとの<心中死>でありました。さらにそのあとカンヌ国際映画祭でグランプリを得た日本映画「うなぎ」は、主人公が不倫をした妻を殺し、自首して服役するところから、始まります。
 時代は、明らかに変化しつつあるのです。「うなぎ」の主人公は、仮出所後に、大きなうなぎを飼うことのみを心のよりどころのようにして、片田舎で理髪店を開き、他の人間との交流をさけて、一人で生活するようになります。しかし、この杜会に生きる以上、他の人間とのかかわりあいを、いっさい拒みつづけることなどはできはしません。
 折からの日本は、少年少女犯罪の多発、金融機関やパチンコ店などへの強盗の多発、ヤクザの流血などの時代を迎えています。これは、何を示唆するものなのかを、読んで下さい。

 

 

杉並映画村通信 014 1997年10月掲載

 

 

杉並映画村通信時代の声を読み解こう

連載 第014回 

映画の映像は現代を証言する

 

 映画とは、機械を使って人間が集団で作る、文化的な創造物である。従って個性的な監督がリードして、この現代的な創造物が作られると、その映像からは面白いテーマが、読みとれるようになる。映画の映像というものは、とても感覚的な形で、それが作られた時代というものを証言し、その向うに形作られつつある近未来というものを予言するものなのである。
 それは、まだ誰も論理化していないような、流動的に動きつつある現代という時代の声の証言であり、まだ誰の目にも具体的には見えてこない、近未来というものについての、予言でもある。それを、どう読み、論理化するかが、われわれ観客に課された、大命題である。
 渥美清の死によって、「男はつらいよ」シリーズ映画が終ったということには、どういう時代の証言がこめられている、と考えればいいのか。寅さんこそが人間的なるもののシンボル、とでもいった心情が、郷愁をこめて語られつづけている日本の現状は、いったい何を証言しているのか。
 そしてその次にやってきた「うなぎ」のカンヌ国際映画祭グランプリ受賞、「HANABI」のヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞、といった日本映画への高い国際的な評価は、いったいどんな意味をもっているのか。「うなぎ」も「HANABI」も、とても面白い日本映画である。それも、個性的な監督によって作られた、とても個人的な作品世界をもった映画である。かってヴェネチア国際映画祭で同じグランプリを受賞した日本映画「羅生門」や「無法松の一生」(カラー・ワイド画面版)は、「HANABI」とはまったく違うタイプの映画だった。
 われわれはそんな風にして、現代の日本映画から、現代の日本の現状を読みとり、近未来への暗示を、読み解いていく必要があるのだと私は思う。そこから「では今、何をなすべきなのか」という、命題も生れてくるのである。

 

 

杉並映画村通信 015 1997年11月掲載

 

 

杉並映画村通信必見のアメリカ映画

連載 第015回 

「エアフォース・ワン」

 最近のアメリカ映画は、何を見るべきか?と問われたら、「エアフォース・ワン」と答えよう。クリントン大統領が見て気にいり、ホワイトハウスの職員に「皆も見るように」と言った、という話題のヒット映画である。ハソソン・フォードの演じるアメリカ大統領専用ジェット機「エアフォース・ワン」が、ロシア訪問の帰途、テロリストに乗っとられる、というサスペンス映画だ。大統領は妻と子を残して非常脱出装置で逃れた。ところが地上に到着した脱出用カプセルを開けると、その姿がない。
 大統領は、密かに単身機内に潜んで、テロリストと対決、妻と子を救い、「エアフォース.ワン」をとりもどそうとするのである。監督は旧西ドイツ出身で潜水艦映画「U・ボート」を作り、ハリウッドに引き抜かれたウォルフガング・ペーターゼンだ。この映画のアメリカ大統領は「いかなるテロリズムにも絶対屈しない!」という意志を持ち、ロシア政局の混乱をついてカザフスタンに成立した独裁政権を打倒するため、特殊部隊を送りこんでリーダー逮捕に成功した人、という設定になっている。それを祝うレセプションの帰路、「エアフォース・ワン」は乗っとられるのである。
 乗っとったテロリストのリーダーは「旧ソ連の栄光を崩壊させ、ロシアを混迷におとしいれたのはお前たちだ!」と、「エアフォース・ワン」の乗員を三〇分間に一人づつ殺し、アメリカ政府に取引きをせまる。「カザフスタンで逮捕拉致したリーダーを釈放せよ!」と。
 かくしてアメリカ大統領は、一匹狼のスーパー・ヒーローとして獅子ふんじんの大活躍をはじめるのである。いかにも現代アメリカの国家としての夢想を、アクション・サスペンス映画に託したような、エンタティメント映画である。少なくとも映画の中では、それが通用するように、痛快に作られているあたりが、またひときわおそろしい。

 

 

杉並映画村通信 016 1997年12月掲載

 

 

杉並映画村通信世界の政治状況を読む

連載 第016回 

セブン・イヤーズ・イン・チベット

 前号に書いた「エアフォース・ワン」についで、二番目に見るべきお正月興行のアメリカ映画は?と問われたら、「セブン・イヤーズ・イン・チベット」と答えようと思う。
 十一月にあった東京国際映画祭で、中国は開催日直前に、突然作品出品をとりやめ、代表団を引きあげてしまった。その理由はどうやら、映画祭でこの映画が上映されるからであったらしい。
 「セブン・イヤーズ・イン・チベット」は、ナチス・ドイツに統合された時代のオーストリア人登山家が、ヒマラヤ登頂に挑戦するという、実話の映画化である。第二次大戦が始まり、主人公はインドにあったイギリス軍の捕虜収容所に入れられる。そしてそこを脱走、禁断の地だったチベットに入る。そこで彼は、少年時代の活仏ダライ・ラマ十四世に、西欧文明について教える、家庭教師となるのである。だがやがて、中華人民共和国によるチベット制圧が始まる。その中国人民軍のチベット制圧の描きかたが、中国側の反発をまねいたのである。
 この映画の主人公を演じるのは、「リバー・ランズ・スルー・イット」「セブン」のブラッド・ピット。監督は「薔薇の名前」「愛人/ラマン」のフランス人ジャン=ジャック・アノーだ。ダライ・ラマ十四世がインドに亡命している今、映画のためのチベット・ロケは、もちろんできなかった。
 そこでアメリカ資本の大作であるこの映画は、アルゼンチンのアンデスの村に、巨大なセットを作って撮影された。インドから百人のチベット僧が、撮影のためアンデスに飛行機で飛んだのだという。チベットの衣裳を、現地から運んだ布でデザィンしたのは、イタリアの有名デザィナーのエンリコ・サバティー二である。
 といった風に、この映画はまさに、現代世界の政治状況を、絵に描いたようにして、作られているのである。見た読者の感想が聞きたい。

 

 

杉並映画村通信 017 1998年01月掲載

 

 

杉並映画村通信

連載 第017回 

「阿片戦争」をどう読む?

 「エアフォース・ワン」と「セブン・イヤーズ・イン・チベット」という二本のアメリカ映画につづいて、見るべきお正月映画は何か?と聞かれたら、中国映画「阿片戦争」と答えようか。これは「芙蓉鎮」の謝晋監督が、香港が一世紀半ぶりに中国に返還されたことを記念して作った、二時間半の大作である。
 社会主義市場経済の国である現代の中国の、民間資本導入で作られた映画で、なぜ香港がイギリスの植民地となったのか、が阿片戦争を描くことで語られる。イギリスからの阿片禁輸を断行した欽差大臣の林則徐を演じるのは、中国の演劇界の名優鮑国安である。広州の海岸で大量の阿片が、海に棄てられる場面が、大群衆動員の見せ場になっている。
 中国の阿片商人を演じるのが、「推手」「恋人たちの食卓」などで知られる、台湾の性格俳優の郎雄なのも面白い。中=台の連携が成立しているのである。それだけではない。この映画はイギリス側の場面も登場するのだが、そのシーンは香港の女性監督である、「女人、四十。」のアン・ホイによって、現地イギリスで撮影されているのである。
 イギリスの阿片商人を演じているのは、ロイヤル・シェークスピア・カンパニーの性格俳優ボブ・ペックである。そして撮影を担当したのが、問題を起こした中国の反体制映画である田壯壯監督の「青い凧」のキャメラマンの候咏だ。
 そして謝晋監督は、ヴィクトリア女王の役に、何と事故死した元イギリス皇太子妃ダイアナを出演させようとしたらしい。本人は生前に出演する気があったようだ、とも伝えられる。このあたりが、いかにも機を見るに敏(びん)な謝晋監督らしいところである。
 では映画作品としての出来あがりはどうか?ということになるのだが。それを「どう読むか」は、この新聞を読んでいる読者諸君、政治運動家諸君にゆだねたいところである。いかにもこの映画らしく、東京・神田の岩波ホールで上映中である。

 

 

杉並映画村通信 018 1998年02月掲載

 

 

杉並映画村通信思考の老いは行動をパターン化する

連載 第018回 

久しぶりの投書ですが

 

 久しぶりに投書が二通きたが、どれも痛く失望した。「セブン・イヤーズ・イン・チベット」は「欧米帝国主義のアジア侵略の歴史を語らず」に、「欧米人にとって都合のよい甘美(かんび)なオリエンタリズム」のみを描いた内容で「唾棄(だき)すべき」だと主張する。
 「阿片戦争」は、「相次ぐ列強からの侵略に対して中国民衆が出した答え」は、「孫文が指導した」「辛亥革命」だったはずで、「阿片戦争以来百五十年の中国の歴史は、「このテーマが根底に」あるはずだ、とする。そして「清朝とその下での社会の封建的専制的ありよう、民衆の苦しみ」を、えぐりだす批判精神が中途半端だった」とする。
 どれもごもっとも至極(しごく)なのだが、労働学級の老教務主任のお説教(?)でも聞いているようで、その古典的教条主義には、恐れいってしまう。
 現代のアメリカと中国によって作られた映画が、その画面にどういう「時代の要請によって」、どんな「映像のスペクタクルを作りあげ」ていて、なぜそれが「観客を集めている」のか。そしてそれは現在の政治状態を「どう反映して」おり、それには「どういう意味があるのか」を、感性を鋭敏(えいびん)にして読み解いていく姿勢というものが、まったくないのである。
 真の政治改革運動を、この一九九八年の日本でやっていこうというのなら、「そこから感覚的に読みとった」ことを「キイワードにして」、「今の政治状況」や「今の日本人の生活感」をふまえた「新しい展望」をわがものとし、そこから「未来に向っての戦略戦術」を、組みあげていかなければ、どうにもしようがないのではありませんか?
 北野武監督の「HANA―BI」や、アメリカ映画「タイタニック」でも見て、少し「感覚的混乱」をでも体験して、何かをもう少し「フレッシユ」に考えてください。何を見ても「昔勉強した古典的思考」にしか戻れぬ人というのは、六五才の私が考えても「老人」ですね。

 

 

杉並映画村通信 019 1998年03月掲載

 

 

杉並映画村通信映画をどう読み自己論理化するか?

連載 第019回 

最新作「アミスタッド」

 「E・T・」や「ジュラシック・パーク」と、大ヒット映画連発のアメリカの人気監督スティーブン・スピルバーグの最新作、「アミスタッド」の上映が、始まった。これは一九世紀にアフリカから奴隷たちをアメリカに運んでくる、スペィン船で嵐の夜に起った、黒人たちの反乱のドラマである。
 反乱は成功したが、船はアメリカ海軍によって港に入港させられ、黒人たちの取扱いが問題になり、裁判が始まる。スペイン女王は「積み荷の奴隷たちの引渡し」を要求。船を捕えたアメリカ海軍将校は「奴隷たちの所有権」を主張した。こうして「苦難の反乱」に成功した黒人たちは、今度はもっと労多い「苦難の裁判」と、戦わねばならぬこととなる。
 しかし、アフリカの黒人たちは、部族語しか話すことができない。アメリカ人の支援者たちは、苦労して通訳のできる黒人を探し出す。しかし「裁判のシステム」と、それを支える「アメリカ的な文明社会の論理」そのものが、彼らには理解できない。
 アメリカの現職大統領は、責任を回避して総ての決着を、裁判にゆだねノる。黒人解放論者の白人の富豪と、彼のもとで新聞を発行している黒人編集者(モーガン・フリーマン)が、裁判を全面的に支援する。元アメリカ大統領(アンソニー・ホプキンス)の、政治的な動きが事の決着に大きな影響力を持つ。目前に追っている大統領選が問題なのである。
 といった風に、話が進行していくのが、映画「アミスタッド(スペイン語で「友情」の意味)」の大筋である。「E・T・」で「地球人・人類みな兄弟」(?)というテーマを太平楽に描いたスピルバーグ監督の、大変身映画である。
 もちろん「アミスタッド」の前に、この監督は「カラーパープル」と「シンドラーのリスト」を作っているのだが。さてこの彼の最新作から、あなたはどう「アメリカの今」を読みとり、それをどう自己論理化しますか?

 

 

杉並映画村通信 020 1998年04月掲載

 

 

杉並映画村通信アメリカ映画人の願望

連載 第020回 

「タイタニック」が意味するものは?

 「タイタニック」が意味するものは?
アメリカ映画「タイタニック」が、アカデミー賞を十一部門で独占受賞した。これはいったい何を意味することなのか?面白い問題である。では「タイタニック」という3時間14分の大作を作ったのはいったい誰か?製作・監督・脚本・編集を担当した、四十三才のジェームズ・キャメロンである。
 彼は今や全世界の映画興行を席捲(せっけん)する、コンピューター・グラフィックスを中心とする特撮を駆使(くし)した、スリルとサスペンスを売りものとするアメリカ映画の物量的大作作りの、チャンピオン監督であった。「ターミネーター」「アビス」「ターミネーター2」「トゥルーライズ」といった、万博映像ショーか遊園地のジェットコースターのような、生理的なスリルとサスペンス強調映画の、代表的作り手だったのである。
 その彼が、今までで最高の巨額な製作費を投入し、コンピューター・グラフィックス中心の特撮技術の粋(すい)を駆使して作った大作が、「タイタニック」なのである。そして見ればわかるように、これは巨大客船タイタニック号の事故による沈没をスペクタキュラーに再現しながら、実はその上に身分違いの若い男と女の愛を、何とも底抜けにロマンティックに、謳(うた)いあげた作品なのである。まるで、第二次大戦前のアメリカの恋愛映画のように。
 この映画が、アメリカ映画の作り手たちが投票で選ぶアカデミー賞の、十一部門を独占したのである。その他の受賞作品やそれを作った人たちも、手造りの人間的な映画やその作り手というのが多い。このへんに、アメリカ映画人の願望=それは、恐らく大多数のアメリカ人そのものの願望でもあるだろう、が反映しているようにも思われて面白い。
 日本映画「うなぎ」や「HANA―BI」の海外映画祭受賞の原因も、それが人間的な手造り映画だったからかも、しれないのである。さてこれらの映画を、実際に見てのあなたの意見を、ぜひ聞いてみたい!

 

 

杉並映画村通信 021 1998年05月掲載

 

 

杉並映画村通信アメリカがちょっとやばい

連載 第021回 

生気のない「話題作」--「恋愛小説家」「ジャッキー・ブラウン」

 アカデミー賞の主演男優賞をジャック・ニコルソンが、そして主演女優賞をヘレン・ハントが受賞したアメリカ映画「恋愛小説家」の日本公開が、始まっている。「イージー・ライダー」で、ドラッグの匂いのするような感じの、反体制的なイメージの強い俳優として有名になった彼の、功なり名をとげた後の、現在の姿というものが、ここにはある。
 彼はあいかわらず、奇をてらってスネた役作りをやっていて、それが作品全体の風変りなトーンを作りあげてはいる。相手役の女優ヘレン・ハントも、それにあわせて奇妙なキャラクターを出している。タイトルの「恋愛小説家」とは、ジャック・ニコルソンの演じる小説家が、恋愛小説の書き手として、知られた存在であるという設定によるものだ。
 異常なまでの潔癖症である彼の、奇行と反常識的生きかたが、これでもかこれでもかとばかりに、画面の中で強調される。「ブロードキャスト・ニュース」「ハリウッド・トラブル」のジェームズ・L・ブルックス監督が、それを映像的になおも強調する。しかしその総体が、みごとに安足したアメリカの商業映画になってしまっていて、毒っ気がない。
 「パルプ・フィクション」という、ちょっと変った毒っ気のあるアメリカのインディーズ(中小独立プロ)映画で名をあげた、クェンティン・タランティーノという監督の新作「ジャッキー・ブラウン」という映画も、まったく同じような作品である。低額予算の早撮り作品という条件を逆手にとり、曲者(くせもの)役者たちを集めて、監督自身はかなり癖の強い、変な映画を作ったつもりらしい。
 しかしこれも、その総体がみごとに、奇をてらって空転した、生気のない、近頃流行風のパターンの商業映画になってしまっているのである。近頃のアメリカはちょっとヤバいな、ことによると近い将来、株の大暴落でも始まりかねないムードだなーといった気が、こうした「話題作」を見ていると、してくる。

 

杉並映画村通信 022 1998年06月掲載

 

 

杉並映画村通信論理性を欠く感情論

連載 第022回 

東條英機が主人公の映画  「プライド運命の瞬間(とき)」

 「プライド運命の瞬間(とき)」という日本映画が、東映系の映画館で公開中である。東條英機が主人公の映画だ。最初のシーンは、彼の太平洋戦争開戦の時の演説である。ついで映画は一気に、日本敗戦の時に飛んでしまう。アメリカ占領軍に逮捕された彼は、A級戦犯として東京裁判で戦争責任を問われる。そして死刑に処せられる。
 映画は、その裁判のプロセスを、アメリカやインドなどから招いた俳優たちをまじえた、国際的キャストで描いていく。その裁判が、戦勝国側によっていかに不当に進行したものであったのか。インドの判事がそれを主張しようとしたが、いかに法廷でのを発言を阻まれたか。そして東條とその夫人の愛が、いかに強いものであったのか。そんなことが、この映画では主張されていく。
 それを意外に入念に、日本的にオーソドックスに、この映画は描くのである。しかし、津川雅彦の演じる東條英機が、正面切って一見堂々と演技すればするほど、その人間像は空虚に見える。なぜなら、戦争の始まりから終りまで、この人物はいったい何を考え、どんな役割を果したのか、ということがまったく具体的に、描かれてはいないからである。
 裁判が不当だったとか、インドの判事が疎外(そがい)されたとかいうことを、大芝居で描いていくのみでは、そのいちばん重要な部分がいっこうに、見えてはこないのである。この映画の伊藤俊也監督は、東映で異色の労組運動をやったことで知られる人物である。
 そして彼も出演の俳優陣も、この今までタブーだったようなところのある東條英機という人物を、あえて今映画の画面に描くことに、一種のファイトをわかしたようなふしがある。イデオロギー喪失(そうしつ)の時代、価値観混乱の時代への反発のようなものもこめて。
 しかしその結果が、論理性を欠く一方的な感情論のみの東條映画になってしまったのでは、何をかいわんやである。それはオーソドックスな、右翼映画だということにほかならない。

 

杉並映画村通信 023 1998年07月掲載

 

 

杉並映画村通信若者が疾走する映画

連載 第023回 

「アンラッキー・モンキー」

 「アンラッキー・モンキー」という、三三才の俳優でもあるサブが、原案・脚本・監督を一人でやってのけ、脇役で出演もしている映画が面白い。これは彼の監督作品としては三作目の映画で、いずれも低額予算と短期間撮影の製作条件を逆手にとって、シンプルな映像表現を押し出した作品である。

 一九九六年の第一作「弾丸ランナー」は、銀行強盗をやろうとした若者と、コンビニのレジでアルバイトをやっているロック・シンガーの若者と、ヤクザの組の若者の三人が、なぜか追いつ追われつで、道路を一直線にただただえんえんと走ることになってしまうという、疾走(しっそう)映画である。

 一九九七年の第二作「ポストマン・ブルース」は、これまた三人の男が、自転車にのって疾走することになるという、疾走映画である。第三作の公開中の「アンラッキー・モンキー」も相棒と銀行強盗をやろうとした若者が、とんでもない事態にまきこまれ、ただひたすら道を疾走することになる、という疾走三部作の最新作である。
 現代日本の高度な管理型資本主義社会で、コンプレックスとイライラをつのらせて生きている若者が、ひょんなことから道路をえんえんと一直線に走りつづけることになってしまう。そして息を切らせて走っているうちに、何だか爽快な充足感のようなものを、実感しはじめたりもするのである。
 それをシンプルかつストレートな映像描写によって、解放感たっぷりにやってしまうところが、サブの映画の面白さである。出てくる犯罪予備軍の若者、ヤクザ、そして刑事などが、いずれも皮肉とユーモアたっぷりの存在であるのも面白い。
 「プライド運命の瞬間(とき)」が、価値観ストップの映画(?)だとするなら、こちらはストレートな疾走映画、である。折から参院選の時、われわれはここから、いったい何を学びとるべきなのでありましょうか?

 

杉並映画村通信 024 1998年08月掲載

 

 

杉並映画村通信 楽しくなければ福祉じゃない

連載 第024回 

福祉映画祭 in NAGOYA

 私は今「福祉映画祭 in NAGOYA」という催しに参加するため、名古屋にきている。車椅子の人達が主催している、今年で十五回目の映画祭である。第一日目は「おもひでぽろぽろ」「もののけ姫」などの上映日で、私はこれらのアニメ映画を作ったスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーと対談をした。

 

 第二日目は柳沢寿男という、福祉施設のドキュメンタリー映画を営々と作りつづけている、ユニークな記録映画作家の日で、この人の作品を上映し、福祉施設の人や施設にかかわっている寺の住職たちと、この監督をまじえてディスカッションをおこなった。

 今日はその第三日目、「友だちのうちはどこ?」「愛の黙示録(もくしろく)」、そして新作試写で「稚内発・学び座/ソーランの歌が聞こえる」などの各国映画を上映し、これら「こどもの映画」を作った人たちと、ディスカッションをおこなう。
 それぞれの日の終了後は、ドーナツとミルクでのパーティがある。福祉映画祭なので、アルコールを使った集まりは、やらないのである。こういう映画祭が、名古屋で三日間も車椅子の人達の自主運営でおこなわれているということを、知っていただきたいと思う。
 この映画祭のテーマは第一回から「楽しくなければ福祉じゃない」という風に、設定されている。例えば「座頭市」の映画を、映画祭で上映しよう、「あれは視覚障害者が主人公の映画じゃないか」というような、映画上映をおこなっている「お祭り」なのである。
 この映画祭に参加して私は、「かわいそうだは差別ってことよ」という標語を、自ら学んだ実感として作った。障害者たちのことを「かわいそうだ」などと考えることそれ自体が、もう差別だということである。
 車椅子の人達を手助けするつもりで、もう十五年も参加している「福祉映画祭」で、かえってわたしは生きることを教えられ、はげまされているような気がするのである。

 

杉並映画村通信 025 1998年09月掲載

 

 

杉並映画村通信長い徒労の時間を描いた映画

連載 第025回 

9月公開「愛を乞うひと」

 「愛を乞うひと」という、九月公開の日本映画を見た。下田治美の原作小説を、「月はどっちに出ている」の鄭義信がシナリオにし、「ザ・中学教師」「学校の怪談」「学校の怪談2」の、平山秀幸監督が映画化した、二時間十五分のかなり長い作品である。
 ヒロインを演じるのは原田美枝子だ。彼女は敗戦後の焼けあと闇市時代の混乱の中で、何人もの人間から性的暴行をうけ、台湾人の青年に助けられ、彼と結婚して赤ん坊を生む。しかしやがてお人好しの夫は幼い娘をつれて家を出、病死してしまい、娘は施設に預けられる。その娘を、水商売をやっている母親の原田美枝子が引きとる。そして彼女は引きとった娘を、なぜか徹底的にいじめ抜くのである。三人の子役が演じる幼女時代から中学を出て、働き出すまでの娘に、彼女の殴る蹴るの虐待がつづく。
 そうした母と子の、まだ日本が貧しく混乱していた過去の時代のエピソードを、成人した現在の娘が思い出していく、という構成でこの映画は進行していく。二つの時代の話がかなりラフな構成でダブつて、映像化されていく、という形である。そして成長した現在の娘を二役で演じるのも同じ原田美枝子なのである。
 現在の娘は、夫をなくして、思春期の娘と二人で暮らしている。物質的には豊かになった現代という時代の空気の中で、彼女の若い娘はかなり自己中心的でまた反抗的でもある。その母親となった娘は、死んだ父の墓を探し出し、やがて働くようになってから家出して棄てた母の存在を、探し出す。そして二人は、思いがけない形で会うのである。同じ女優の演じる母と娘の再会である。
 だが、再会しても別に、二人の心は通じるわけではない。娘が幼い頃から、うけつづけた虐待の、意味も別にわからない。従ってこれは、同じ一人の女優が演じる長い長い母娘の断絶した人間関係というのは、総て徒労(とろう)であった、という風にも読めなくもない映画なのである。いかにも現代日本社会のアナーキーな現状を、証明でもするかのような。

 

杉並映画村通信 026 1998年10月掲載

 

 

杉並映画村通信戦場の臨場感の背後に郷愁が

連載 第026回 

「プライベート・ライアン」

 今年で五一才になる、アメリカの売れっ子監督スティーヴン・スピルバーグが、「プライベート・ライアン」(ライアン二等兵)という、本国で評価の高い二時間五〇分の戦争映画を作った。
 ノルマンディー上陸作戦で、アメリカ軍が最も悲惨な犠牲をはらった、ブラディ・ビーチ(血みどろの浜)と呼ばれた、オマハビーチの戦いに参加した、兵士たちを描いた作品である。開巻三〇分、その死闘を手持ちキャメラやシャッター速度を自由に変えられる装置を使って、まるでニュース映画のように臨場感(りんじょうかん)たっぷりに描いたシーンが、見所だ。
 やがて「フォレスト・ガンプ」「アポロ13」のトム・ハンクス演じる大尉が率いる七人の兵士たちが、「ライアン二等兵救出」の命令をうけて、混乱する戦場に入りこんでいく。故国で息子四人を兵士として送り出した、ライアン未亡人の、上の息子三人が戦死し、軍上層部がいちばん下の一人を、母親のもとに送り返せ、という命令を出したのである。
 一人の若者を救出するために、八人の兵士たちは混戦状態の戦線を渡り歩く。そして「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」「レインメーカー」のマット・ディモン演じる、ライアン二等兵をやっと見つけ出す。しかし彼は「故国には帰らぬ」と言う。そして最後に、彼らと戦車をともなうドイツ軍との、壮烈な戦いがやってくる。
 カラー・ワイド画面に、最新の立体音響効果を駆使(くし)した、戦闘場面の臨場感が、確かに凄まじい。しかしこれは、あくまでもアメリカ軍が正義の戦いをやっていた、第二次世界大戦下の話である。疑問を提出したりはするものの、その戦いの背後にあるのは、あくまでもアメリカの郷愁と正義なのである。
 スピルバーグ監督が、本当に戦争の悲惨を映画で現代的に描こうというのだったら、彼は朝鮮戦争かヴェトナム戦争をこそ、まっ正面からとりあげるべきでは、なかったのだろうか?

 

杉並映画村通信 027 1998年11月掲載

 

 

杉並映画村通信入念なアナクロニズム

連載 第027回 

「カンゾー先生」と「時雨(しぐれ)の記」

 東映系公開の、一〇月の今林昌平監督の「カンゾー先生」と、一一月の澤井信一郎監督の「時雨(しぐれ)の記」は、ともに近頃珍しく入念に作られた日本映画、といっていいだろう。ところが問題は、入念に作られているから面白いのかというと、これが正反対なのが、何とも困ったところである。
 「カンゾー先生」は、カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した前作「うなぎ」が獲得した新境地の、シンプルで自由な映画作りの面白さを、また元にもどしてしまったような古風な今村風意欲作(?)で、何とも恐れいってしまった。敗戦直前のころの日本を、観念的かつ図式的に描いた、映像による舞台劇のような、古くさい大作なのである。
 観客は映っている総てのことの寓意(ぐうい)を、図式的に読みといていくことを強制されて、見ていても面白くもなければ楽しくもない。革新的な日本映画の作り手だったはずの今村監督も、年輪を経るとこういう古典的な作品を作ってしまうことになるのか、とただただ困惑するばかりである。
 「時雨の記」は、中里恒子の原作がもつ、日本的な中年の男と女の、ついにセックスには至ることのなかったという大人の愛を、日本的な情趣たっぷりに渋く描いたドラマが、とみに大味化(?)してしまった今の日本映画に、果して映像化できるのだろうかと思っていたら、まさに予感が的中してしまった。
 原作の物語を、表面的に映像でなぞった形の、おかしなおかしなアナクロニズム映画が、出来あがってしまったのである。これまた見る側としては、困惑してしまうのみであった。
 革新的な日本主義も、旧守的な日本主義も、ともに完全にアナクロニズムと化してしまっている、という日本の現状の、これは映画の映像による証明なのかもしれない。いかにも「北京原人」や「プライド 真実の瞬間」を作った、東映公開の作品というべきか。あのヤクザ映画の東映も、はるかに遠くなりにけり、である。

 

杉並映画村通信 028 1998年12月掲載

 

 

杉並映画村通信寅さん映画の時代が終わって…

連載 第028回 

山田洋次監督「学校V」

 山田洋次監督の「学校V」は、最近の松竹としては観客のよくはいった映画であったようだ。同じ監督の以前の作品「学校」「学校U」は、いかにも山田洋次監督作品風の良心作ではあったのだが、描写が平板で甘かったり、テーマがきれいごとに扱われてしまっていたりで、もうひとつ現実的な説得力がない、というのが私の実感であった。
 新作の「学校V」は、東京下町の職業訓練校のことを描いた映画なのだが、この学校のことをリアルに描いてみせて、教育というものの本質を問うた、というほどの作品ではない。むしろ、この学校に学ぶことになった、大竹しのぶの自閉症の息子をもつ、夫を過労死で失った中年女性と、小林稔侍のリストラで退職させられた大手証券会社の部長だった中年男の、ほのかな愛と別れを、しんみりと描いてみせたのが面白かった映画であった。
 いわば松竹大船撮影所作品として独壇場の、庶民の生活ドラマとして、なかなか入念に作られた映画だったのである。職業訓練校の描きかたそれ自体は、むしろたぶんに教条的でワン・パターンなものだった。このへんから、山田洋次監督の映画というものの、本質が問われる問題が出てくるように思う。
 それは、渥美清という一人のスターが死んで、「男はつらいよ」シリーズというものがついに終り、山田洋次監督が今後は、一本一本の別個の作品を、それなりに工夫を凝らして、別のものとして作っていかねばならぬ時にさしかかったことと、無縁ではあるまい。「男はつらいよ」シリーズ映画を、ワン・パターンで作りつづけると同時に、製作されてきた「家族」から「学校」に至る作品群は、寅さん映画連作に足を引っぱられて、みな内容をよく似た平板なものにしてしまってきていた、という感じがあったのである。
 寅さん映画の呪縛から脱して、山田作品が新時代を迎えたこなとは、馴れあいと野合の時代を脱して、日本が今、新しい自立の時代を迎えようとしていることと、無縁ではないだろう。

 

杉並映画村通信 029 1999年01月掲載

 

 

杉並映画村通信イランの映画が持つ迫力

連載 第029回 

一月公開の新作「りんご」

 イラン映画が日本でも公開されるようになって、その圧倒的な追力が、見る者に感動を与えている。宗教的な戒律に規制され、検閲の厳しいこの国の映画が、まだ貧しい自分の国の現実を、乏しい製作費で描いた作品が、なぜこういう強烈な力を持ち、見る者を圧倒するのか?
 一月公開のイラン映画の新作「りんご」は、何と一八才の女性新人監督サミラ・マフマルバフが、一一日間で撮った作品である。彼女は実は、「桜桃の味」という秀作を作ったアッパス・キアロスタミ監督とならぶ、イランの代表的監督モフセン・マフマルバフの娘で、一五才で学校をやめ、父の助監督をやっているという女性である。
 その彼女が、テレビである社会的な事件を知る。視覚に障害のある母親が生んだ一二才の双子の姉妹を、貧しい一家の父親が監禁し、家の外に出さないでいると近所の人達が、社会福祉事務所に訴えた、という事件である。
 彼女はその一家と知り合いになり、おりから撮影中の父の映画「沈黙」の機材を使い、若いスタッフたちと、ドキュメンタリーとドラマの中間のような形で、この事件と一家のことを映画に撮っていった。一家の父や母や双子の娘や、近所の人達の姿や、その言い分などを、フィルムに撮影したのである。
 そして父親と半年かけて編集して、この映画を作った。まだ、幼い映画体験の持ち主である一八才の女性が、底抜けに素朴な眼で、自分の国の現実を見詰めて撮った、シンプルな一時間二六分の映画である。この作品の面白いところは、告発された一家が悪い、というテレビや新聞など一般ジャーナルの側の視点には、立っていないことである。といって、一家の側がいい、とももちろん言ってはいない。
 この事件を成立させているイラン社会の小状況を、幼いなりの眼で、平等に正視していくのだ。するとそこから、いつかこの事件を成立させている背後のイラン社会の大状況が、無垢な形で見えてくるのである。 それが、示唆に富んでいて実に面白い映画である。

 

杉並映画村通信 030 1999年02月掲載

 

 

杉並映画村通信「踊る大捜査線」のヒット

連載 第030回 

フジテレビが製作した映画「踊る大捜査線 THE MOVI」

 フジテレビが製作した映画「踊る大捜査線 THE MOVI」が、記録的に大ヒットしている。もともと連続テレビ・ドラマとして放映した、若者向けの少々おふざけ調の刑事物を、劇場用映画にしたものである。番組のテレビ放映後、テレビ用特番をまた別に三本作り、それと連動させて同じキャストと同じディレクターで、映画版を作ったものだ。
 この映画の大ヒットは、いかにも現代の日本社会の風潮というものを、反映している。テレビ番組で見てよく知っているドラマの、そのパターンや人物の性格やギャグなどを、観客なと馴れ合う形で展開していく劇場用映画が、まるでファン大会みたいに、多数の人々を集めているのである。いくつかの映画館では、ラストの主題歌がうたわれる個所で、場内に若者たちの大合唱が起ったという。
 渥美清の死によって、「男はつらいよ」シリーズの寅さん映画は、四八本で終ってしまったのだけれども、その流れはみごとに、こういう形で引継がれていることになる。一本の独立した、日本社会の現状の矛盾を衝いたような映画を、能動的に映画館に出かけて行って見て、自分を新しい状況に追いこむような、映画の見方がなくなりかけてきているのである。
 既によく知っている、一つのパターンをふんだ、心地よいものと馴れ合って、その場限りの楽しい思いをしたい。テレビのブラウン管で見た時は、自室で一人だったが、映画館に行けば同好の士が集って、同じムードに酔って、主題歌が大合唱できる。そんな思いの人間たちが集って、こういう映画を大ヒットさせているのである。
 と書いてくると、現代日本資本主義社会の矛盾がシンボリックに現われた事例などとこの新聞の読者諸氏は、思うかもしれない。しかし実は、革新の側もまったく同じようなことを、反対の側で教条的にやっているだけではないのか、という反省がないと、こういう現状の打破は、不可能でしょうね、きっと。

 

杉並映画村通信 031 1999年03月掲載

 

 

杉並映画村通信長い長いイライラと不安

連載 第031回 

「スネーク・アイズ」

 「スネーク・アイズ」というアメリカ映画を見て、いろいろと考えた。これは「キャリー」「アンタッチャブル」「ミッション・インポッシブル」などを作った、ブライアン・デ・パルマ監督の映画である。あのスリラー映画の名手アルフレッド・ヒッチコック監督の後継者は彼だ、などともいわれる人だ。
 「スネーク・アイズ」は、現代的な都市アトランティック・シティの、四〇〇〇人もの観客を集めた巨大スタジアムでの、ボクシングのタイトル・マッチのさなかに起った、アメリカの国防長官暗殺事件をめぐる騒動を描いた作品である。映画の主人公は、この街のかなりワルとして知られる刑事で、それをニコラス・ケイジが演じている。彼がこの事件の目撃者の役割りを演じる。
 その暗殺事件の謎めいた真相それ自体も、もってまわったものなのだけれど。この映画が最大の見せ場として売りものにしているのは、ファースト・シーンから二二分間の場面である。主人公の刑事にぴったりと密着した手持ちの映画のカメラが、二二分間の長まわしで彼の行動を終始追いつづけていくのである。
 お祭り騒ぎの街の風景から始まって、やがてその中にいる主人公が歩き出し、巨大スタジアムの雑踏の中に入りこみ、何人もの人間と会話をかわし、ダーティな行為をし、友人とあいさつをかわして、スタジアム内の自分の椅子に坐る。その総てが、何と一台のカメラによってずっと連続して撮影されていくのである。
 さぞかし大がかりな体制で、大騒ぎで撮影されたのであろう、二二分間の息の長いスペクタクル・シーンである。それから、暗殺事件が起る、というわけなのだけれども。この一台のカメラの持続的な長まわしが生み出している、何とも奇妙な、末梢神経を刺激するイライラするような切迫感は、いかにも現代アメリカ的な、映像表現に思える。
 アクシデントが起る前の、イラィラの長い持続と、何が何だかよくわからない不安。そんな空気が、今のアメリカには、不気味にたれこめているようなのである。

 

杉並映画村通信 032 1999年04月掲載

 

 

杉並映画村通信日本兵たちが死んでいく

連載 第032回 

「シン・レッド・ライン」

 ベルリン国際映画祭でグランプリを得たアメリカ映画「シン・レッド・ライン」を見た。第二次大戦中に日米両軍が死闘を展開したガダルカナル戦を、アメリカ側から描いた作品である。脚本・監督は「天国の日々」という特異な美しい映像の映画を作って以来、二〇年間沈黙していたテレンス・マリックである。原作小説これを書いたのは、映画「地上より永遠に」の原作者でもある、今は亡きジェームズ・ジョーンズだ。
 この特異な監督の映画製作復帰を知って、「天国の日々」のスタッフが再結集し、有名無名をふくめて出演を希望する俳優たちが殺到したという。無名に近い多くの兵士役の若い俳優たちにまじって、有名スターが何人も特別出演しているのは、そのためである。
 ガダルカナル戦は、アメリカ軍兵士たちと日本軍兵士たちとが、銃を手に肉体と肉体をぶつかり合せる白兵戦だった、ということをこの映画は描く。風の吹き抜けるガダルカナル島の大自然の中を、恐怖にふるえながらアメリカ兵たちは、ただひたすら進む。すると日本軍の銃弾が、突然彼らの肉体を撃ち抜く。あっけなく、無残にやってくる死。

 アメリカ兵たちが、日本兵たちの陣地を襲撃する。日本人俳優たちの演じる半裸の日本兵たちが、応戦し、逃げまどい、次々と殺されていく。瀕死で「お前たちだって、死ぬんだ、必ず!」などと呪詛の言葉を吐く日本兵がいる。合掌して祈りつづける日本兵がいる。「キノカワ……」などと言って死ぬ日本兵がいる。故郷の「紀ノ川……」のことを最後の瞬間に、思い出してでもいるのか。
 日本敗戦の時に中学一年生だった世代の、私のような日本人にとっては、これはかなり耐えがたいシーンである。あれは、私の戦死した伯父、戦死した近隣の年長の人、だったのかもしれない。
 アメリカ人の側から描かれたガダルカナル戦の映画は、日米両軍の白兵戦の悲惨を人間の愚行として描いた、というより劣勢の日本兵たちの死の惨状を、向う側から描かれた映画、という印象が強い。米独戦を描いたアメリカ映画を、ドイツ人はどう見ているのだろう?

 

 

杉並映画村通信 033 1999年05月掲載

 

 

杉並映画村通信 99年アカデミー賞授賞式

連載 第033回 

エリア・カザンへの非難

 一九九九年のアカデミー賞授賞式で、ちょっとした事件が起った。老監督エリア.・カザンに、特別功労賞が贈られたからである。一九五二年、アメリカにマッカーシズムの赤狩りが吹き荒れた時、彼は非米活動調査委員会に召喚され、自分がコミュニストだった過去を告白し、コミュニストだとされる映画界の友人たちの名を列挙し、仲間を売った人物、として知られるからである。授賞式の会場の前には、反対のプラカードを持った人達が立ち、カザン監督授賞の時も立上って拍手した人は少数で、その他は坐って拍手していた多くの人達と、沈黙して腕を組んだままの少数の人達に分れた。この時のカザン監督の証言によって、その後長い間、映画を作ることができず、不運な人生を余儀なくされた人達が多かったことは、よく知られる。
 いわば転向者エリア・カザン監督に対する、反発である。ブロードウエイの演出家出身で、ハリウッドではなくニューヨークを中心に映画を作ってきたこの監督は、授賞式に同じニューヨーク派の、マーティン・スコセッシ監督と俳優ロバート・デ・ニーロに背後をガードされて登場し、問題の事件については何の発言もせずに退場した。
 転向者を非難するのは、確かに正論には違いない。しかしこの事件以後、そのことに苦悩したカザン監督は、それを色濃く反映させた映画をいくつも作ってきた。「波止場」のマーロン・ブランドの主人公の苦悩、「エデンの東」のジェームス・ディーンの屈折とうっ屈、「草原の輝き」のウォーレン・ベイティのアナーキーな心情といったようなものは、総てその反映といってもいいのである。
 エリア・カザンは、その地獄の苦痛を作品にたたきつけて、,その後の人生を生きたのである。それはそれで一つの人生だろう、と私は思う。例えば私があのマッカーシズムの嵐が猛威をふるった時代、もし召喚などされていたとしたら、敢然と非転向を貫き、拒否を貫けたかどうか。正直言って私には、あまり自信がない。

 

杉並映画村通信 034 1999年06月掲載

 

 

杉並映画村通信赤狩り旋風の中で

連載 第034回 

ベルトルト・ブレヒトの場合

 一九五〇年代のマッカーシズムの赤狩り旋風の中で、非米活動調査委員会に召喚されたのは、映画監督エリア・カザンだけではない。数多くの映画人や演劇人が、召喚された。チャールズ・チャップリンは、そのためアメリカを棄てて母国イギリスに渡り、さらにスイスに移住して晩年を過ごした。
 ドイツ系ユダヤ人で、ヒットラーの台頭によってアメリカに亡命していた、劇作家のベルトルト・ブレヒトも召喚された。「三文オペラ」「ガリレオ・ガリレイ」の作者である。召喚に応じはしたものの、のらりくらりとコンニャク問答を重ねた後、彼は当時の東ドイツ政府に要請されて、この国に再亡命する。この時に、彼がやったことがある。
 東ドイツに渡る前に、彼は過去・現在・未来の総ての自分の著作の出版権を、西ドイツの出版社にゆだねたのである。共産主義官僚の文化活動への介入を、予測していたからだ。といっても彼は、資本主義国西ドイツの自由を、全面信頼していたわけではない。
 西ドイツの出版社で活字化される全著作の印税は、総て自動的にスイスの銀行に振り込まれるようにしたのである。永世中立の国家であるスイスの銀行は、個人の口座の秘密を厳守することで、よく知られている。彼は、資本主義のシステムもまた、全面信頼してはいなかったのである。そしてさらに、自からの国籍を、オーストリアに定めたのである。東ドイツからも、西ドイツからも、スイスからも、身を束縛されないために。こうしておいて彼は、東ドイツに渡り、共産主義政権の全面支援のもとに、国家予算で自からの劇団ベルリーナ・アンサンブルを作り、演劇活動を本格的に始めるのである。
 一人の人間が、自からの表現の自由と個人の自由を守るためには、マキャヴェリズムが必要なのだ、ということの何よりの事例が、ここにはあるような気が、私はしている。

 

杉並映画村通信 035 1999年07月掲載

 

 

杉並映画村通信人間不在の空虚な絵空事

連載 第035回 

「スター・ウォーズ」の新作が詰まらない!

 話題のアメリカ映画「スター・ウォーズエピソード1/ファントム.メナス」が、何とも詰らない映画なので、参った。このシリーズ映画中最大規模の予算を投入し、第一作以来ジョージ・ルーカスが、自らが監督にあたった作品なのだが、出来あがりは目をおおわんばかりの惨状である。
 例によって「昔々、銀かなた河宇宙の彼方に…」というタイトルで始まるこの映画、もともとがスペース・オペラなどと呼ばれる、コウトウムケィなお子様向きの、冒険絵物語である。それに巨大な製作費を投入して、「神話的映画だ」などと力んでみても、仕掛けが豪華スペクタクルになればなるほど、もともとの幼児性の図式が如実に証明されてしまう、ということになってしまった。
 既に公開した三部作と、そのキャラクター権その他の莫大な収入で億万長者になったジョージ・ルーカスも、既に五五才。第一作「スター・ウォーズ」を当時充分とはいえない予算で、懸命に作った頃のような覇気がなく、その演出力の衰えは、いかんともしがたい。
 超大作にしようとするために、「ベン・ハー」のような宇宙ロケット競争のシーンを作ってみせたり、「クレオパトラ」のような人海戦術的大スペクタクル・シーンを作ってみせたりするのだが、これがまったく空転してしまって、迫力がない。
 総てが、高度に発達したコンピューター・グラフィックスの特撮を中心とした、人工的な技術によって作られている、人間性不在の空虚な絵空事だからである。遊園地の絶叫マシーンにのった時程度の、むなしい生理感覚的な刺激が売りもののシーンが、次から次へと展開していくにすぎない。
 他のアメリカ製の天変地異スペクタクル映画や、アクション映画や、オカルト映画などを見ても思うのだが、どうも近頃のアメリカ映画は病んでいるようである。ということは即ち、現代アメリカは病んでいる、ということの証明でもあろう。

 

杉並映画村通信 036 1999年08月掲載

 

 

杉並映画村通信今の日本に充満する怨念

連載 第036回 

 映画「鉄道員(ぽっぽや)」大ヒットの意味は?

 東映映画「鉄道員(ぽっぽや)」が、大ヒットしている。超満員の映画館で、中・高年齢層の観客たちが、文字どうり号泣していて、その声が場内に満ちる、という。正直なところこの映画は、シナリオも演出も撮影も、かなり不出来なものなので、これにはちょっとびっくりした。
 北海道にロケして現地にロケ・セットを建て、雪景の中を蒸気機関車まで走らせる大がかりな撮影をやっているのに、それがよく生かされていない映画である。過去の思い出のシーンを黒白、現在のシーンをカラーで撮影した画面が、ただ不細工にダブって進行していくだけである。そのため、ドラマティックな情感の盛りあがりというものがいっこうにない。演出も撮影も、そんな画面をなすところなく、これまた不細工につないでいくだけである。
 主演の高倉健は、不遇の高年齢の辺地の終着駅の駅長にしては、変に立派な制服と制帽を身につけて、ただ突っ立って、しかめっ面をしているだけである。かなり多彩な他の出演者たちも、いっこうに生彩がない。では、中・高年齢層の観客たちは、いったいこの映画の何に、号泣しているのだろうか?
 健さんの演じる主人公佐藤乙松は、辺地の駅の一人駅長としての勤務のために、赤ん坊の死にも、女房の死にも、立会えなかったという実直な男(?)、という設定になっている。その彼が冬の夜、女房を思い出し、成長して娘となった赤ん坊に幻想の中で会い、やがて死んでいく。
 バブルがはじけて以後のリストラの時代の今、この映画を見た中・高年齢層の人たちは、いわば失われてしまった古い自分たちの時代を背負った健さんの、無骨で不細工な生きざまを体現した存在感そのものに、きっとわが姿を見る思いで号泣しているのかもしれない。
 映画自体の不細工な造りも、そうなるとかえって、そのことに妙な実感を付与しているのかもしれないのだ。するとこれは、そんな怨念をもつ人々が今の日本の津々浦々には充満しているのだ、ということを証明する映画なのかもしれない。

 

杉並映画村通信 037 1999年09月掲載

 

 

杉並映画村通信古典的教養人キュープリック

連載 第037回 

「アイズ ワイド シャット」

 スタンリー・キューブリック監督が、七〇才で急死する直前に完成させた、日本で公開中の遺作「アイズ ワイド シャット」は、不思議な面白さをもった作品である。
 彼の代表作「2001年宇宙の旅」が、未知の宇宙空間を漂流する孤独な人間の映画だとするならば、「アイズ ワイド シャット」は、さしづめ未知のセックス空間を漂流する孤独な人間の映画、とでもいったところである。
 トム・クルーズと二コール・キッドマンという、現実生活でも夫婦である二人の男女スターが、現代のニューヨークで生活する、若いエリートの医師夫婦を演じる。その肉体を大胆に画面に見せて。
 それから二人は、パーティで会った相手からそれぞれ大胆な性的挑発をうけ、帰宅してからマリファナを吸引して戯れ、夫は妻から意外な告白をうける。そこから夫の、深夜のセックス漂流の旅が始まる。死んだ老いた患者の枕もとでの、その娘からの挑発。街頭で誘われた娼婦との、成立しなかったセックス。貸衣裳屋の若い奔放な娘の、彼への好奇心に富んだ視線。そして、郊外の豪壮な邸宅でおこなわれる、宗教的な秘儀のような、秘密の乱交セックス・パーティ。
 男性優位のセックス漂流譚だな、と思っていたら何とこれは、一九二六年に書かれたアルトゥール・シュニッツラーの小説「夢がたり」を原案とする、その現代化の映画なのであった。ただしラスト・シーンでは、ニコール・キッドマンの妻が再登場して、しめくくりの重要なセリフを言う。この実に平凡なようでいて何とも非凡な、あっけらかんとした結末は、映画独自のもので、それがとても現代的で面白い。
 現代のニューヨークが舞台の映画なのだが、撮影されたのはロンドンの撮影所と、そこにセットとして作られた街。そして原案はシュニッツラーの小説。スタンリー・キューブリック監督とは、古典的教養人であったのだな、ということに、改めて思い至る映画である。

 

杉並映画村通信 038 1999年10月掲載

 

 

杉並映画村通信それは時代の空気を証明する

連載 第038回 

レンタル・ビデオのベスト10。
「インディペンデンス・デイ」「スピード」「ミッション・インボッシブル」「セブン」「ディープ・インパクト」「もののけ姫」「フィフス・エレメント」「ダイハード3」「12モンキーズ」「ザ・ロック」

 レンタル・ビデオ店チェーンの大手であるTSUTAYAの、現在までの記録をトータルした、人気貸出し映画のベスト50というのが発表された。その上位ベスト10を列記してみよう。「インディペンデンス・デイ」「スピード」「ミッション・インボッシブル」「セブン」「ディープ・インパクト」「もののけ姫」「フィフス・エレメント」「ダイハード3」「12モンキーズ」「ザ・ロック」の、10本である。 
 アメリカ映画が圧倒的に多いことは、そのカタカナ題名のオンパレードからもよくわかる。それも全体的傾向として、遊園地のジェットコースターに乗った時のような、生理感覚的なスリルを強調することを基本としたようなサスペンス映画が、ほとんどである。
 しかもその底に、オカルト的な現代の悪の存在を埋めこんだような形のもの。それも映画の最後では、たいていそれと戦った人間の勝利を、描いたような形のものが。こう見てくるとこのベスト10は、現代の日本人の好みというものを、極めて正直に反映しているようで興味深い。

 第四位に、そのような現代的な状況というものを、かなり硬派に描いた映画である「セブン」が入っているのも面白い。第六位にただ一本入っている日本映画が、宮崎アニメの「もののけ姫」である。これも「オウム真理教事件」の時代にみあったような、日本的な不条理アニメ映画だ。
 「男はつらいよ」シリーズ映画は、シリーズ全体をトータルすると、もっと上位に入るのかもしれないのだが、一本一本の作品としては題名が何にも出てきていないのも、何やら象徴的である。現代は、もっとこわい時代になってきているのである。
 そしてこの全体的なアメリカ化傾向は、例えば新安保ガイドライン関連法案が、なしくずしに通ってしまうような時代の、正直な反映でもあろうか。このベスト10から、政治革新を志す人間が、自己のアンテナを全開にして、読みとるべきことは、とても多いように思う。

 

杉並映画村通信 039 1999年11月掲載

 

 

杉並映画村通信どの陣営にもよくある現象

連載 第039回 

「金融腐触列島/呪縛」

 「金融腐触列島/呪縛」という日本映画がヒットした。東映系で公開された映画だが、これは東映作品ではない。「失楽園」を作った角川歴彦(角川書店社長)=原正人(アスミック・エース社長)のラインによって製作された映画である。監督にはハリウッドで映画を学んだ、「KAMIKAZE TAXI」の原田眞人が選ばれている。
 企業小説の作家である原作者の高杉良が、シナリオも書いている(他の二人と合作)が、これは実はプロデューサー原正人のアイデアをもとに、原作者と監督の間でキャッチボールのようにして、意見交換しつつ書かれたものらしい。日本の大手銀行に、総会屋への巨額融資疑惑で検察の強制捜査の手が入り、巨大ビルの社内が大混乱になる、というところから始まるドラマである。
 かつて山本薩夫や今井正といった、左派の社会派の巨匠監督たちが作ったような、イデオロギー的な硬直が目立つ、古めかしく暗いもん紋切り型政治映画になっていないところは、とてもいい。まるでハリウッド製の企業ドラマ映画のような、面白い人間集団映像スペクタクル映画に、なっているのである。
 日本企業の崩壊を描いているだけではなくて、役所広司や椎名桔平など四人の、若い中間管理職たちによる企業内造反と、会社再生の努力を描こうとしているのも、まあ新しい。エンタテインメント映画というものは、ハッピーなエンドを必要とするものなのである。
 しかし、そこに描かれた人間群像スペクタクル・ドラマの向こう側に、現代日本の資本主義社会の実体を見すえ、その矛盾点をクロース・アップしていくような、巨視的なテーマがいっこうに出てこない点が、弱い。
 これでは、会社再生には成功するのかもしれない若い中間管理職四人組によって、この大手銀行はまた日本型の保守的閉鎖企業体を形成し、再び内閉化していってしまうのではないか、という風に思われてしまうからである。どの陣営にもよくある、とても日本的な現象として。

 

杉並映画村通信 040 1999年12月掲載

 

 

杉並映画村通信現代日本をシンボライズ

連載 第040回 

「M/OTHER」

 「M/OTHER」という、一九九九年のカンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞した日本映画が、ミニシアターで全国公開中である。「マザー(母親)」と「アザー(他者)」をひっかけた題名で、監督は三九才の諏訪敦彦(すわのぷひろ)だ。
 ちょっと変った作品で、この映画のタィトルには「脚本」という項目がない。「配役」の部分には「キャスト/ダイアローグ」と記されている。要するに脚本なしで、セリフ(ダイアローグ)は、出演する俳優たちが即興的に作っていった映画なのである。
 もちろん監督が大筋の話を設定し、俳優たちとディスカッションし、リハーサルもやるのだが、カメラが回り始めると総ては即興にゆだねられる。だから撮影中にセリフや演技は、どんどん変っていったという。
 主要登場人物は三人だ。まず三浦友和の中年男。そして妻と離婚している彼が、同棲している若い女性が渡辺真起子。離婚した妻が入院して、同棲中の二人のところにやってくることになる彼の息子の少年が高橋隆大である。そういう話の大筋があって、この三人の生活が、俳優たちの即興のセリフによって、映画に撮影されていったわけだ。
 まるでそんな関係にある現実の人間たちの家に、記録映画のカメラが入っていったような作品である。せっぱつまった状態の人間の会話が、現実そのもののように、映像化されていく。上映時間は二時間二七分。
 試写会で中途退席者が四人出た。いずれもその切迫感に耐えられなくなった、中年の男たちであったのが興味深い。しかしこれは、現代の日本をシンボライズしたような、実に面白く興味深い映画である。世の中の善悪の境界があいまいになり、信じられる絶対的なものがなくなり、作り話のドラマが成立しなくなった今の日本で、切迫感のあるリアルな映画を撮ろうと思ったら、こういう風に人間を追いつめるより他はなかったのかもしれない。「マザー」でも「アザー」でもあり得ない現代人の苦悩を抽出して。

 

 

杉並映画村通信 041 2000年01月掲載

 

 

杉並映画村通信大島渚監督13年ぶりの新作

連載 第041回 

「御法度」をどう読み解く?

 松竹系のお正月作品となった、大島渚監督十三年ぶりの新作「御法度(ごはっと)」は、なかなか時代に対する示唆にとんだ時代劇映画である。司馬遼太郎の小説「新選組血風録」の中の、「前髪の惣三郎」と「三条磧乱刃」を大島自身がシナリオ化した、池田屋騒動の翌年の頃の、新選組のドラマである。
 ビートたけしの副隊長土方歳三、「月はどっちに出ている」の監督崔洋一の総長近藤勇、武田真治の一番隊組長の沖田総司などがいるこの武闘派集団に、二人の剣道の腕の立つ若者が入隊する。
 一人は、亡き松田優作のジュニアである一六才の新人松田龍平の演じる、白一色の衣服に前髪立ちの、匂うばかりに色白で唇の赤い加納惣三郎。もう一人は、浅野忠信の演じる、不精ヒゲの田代彪蔵だ。
 そして隊内に、この美貌の若者惣三郎をめぐって、衆道(ホモ・セクシュアル)の争いが生じ、奇妙な波立ちと緊張が走る。まさに大島作品らしい、現代的な映画作りである。
 厳しいルール(御法度)に縛られたこのテロリスト集団に、坂上二郎の六番組隊長や、田口トモロヲの小心の隊員、トミーズ雅の監察などまで巻きこんだ疑心暗鬼が生じるにおよんで、ある決断がくだされる。
 そして時代の申し子だった新選組は、やがてやってくる自分たちの時代の終りを予兆するかのように、問題の処理を終らせることになるのである。俳優たちの持つオーラのようなものを生かし、シンプルに直線的に進んでいく映画作りは、いかにも大島渚作品らしい。
 しかし、その終結部分に、もうひとつ大島映画らしい映像表現の衝撃力の爆発が伴わなかったのは、ちょっと意外であった。むしろビートたけしの土方歳三が寓意をこめて演じるラスト・シーンからは、ある諦念のようなものさえ、ただよってくるのである。
 これは大島渚監督の老成か?あるいは時代に対するアナーキーな思いなのか?それは、見た各人がそれぞれに読み解かねばならぬ、時代のテーマというものなのかもしれない。

 

杉並映画村通信 042 2000年02月掲載

 

 

杉並映画村通信現在の風潮反映する時代劇

連載 第042回 

「雨あがる」と「御法度」と

 黒澤明の遺作シナリオ(原作山本周五郎)を、旧黒澤組のスタッフ・キャストが集って映画化した「雨あがる」は、現在の日本の風潮を反映しているような時代劇であるのが、ちょっと面白い。上映時間一時間三一分の小品で、黒澤組のチーフ助監督だった小泉秦史が、初めて監督している。
 主人公は寺尾聰の演じる浪人で、妻の宮崎美子とともに、仕官先を求めて放浪している身である。そしてこれが、黒澤映画の主人公をつとめた亡き三船敏郎がよく演じた、強くて豪快な浪人とは正反対の性格なのである。やや小男でやせ気味でヒゲ面の、一見人のよさそうな人物で、居合術の名人でありめっぽう強いのだが、自分から能動的には動かない。いわば受け身で仕方なく立つ剣法の名人なのである。
 若侍たちの果し合いに出あっても「おやめなさい、いけません、やめて下さい」などと止めにはいる。ただし相手が理不尽に斬りかかってきたりすると、ヒラリ、ヒラリと自然体で身をかわし、自分の刀の柄やミネ打ちで瞬時にたたきふせてしまう。
 大ヒットしたアメリカ映画「マトリックス」に、主人公が相手の撃つ銃弾から鮮やかに身をかわしてしまう、という映像的な見せ場があった。ただしこれは香港のアクション映画の専門監督まで呼んで、大仕掛けな特殊撮影装置を駆使して人工的に作ったものであった。
 「雨あがる」は、居合術の心得のある監督と組んで、寺尾聰が八カ月の修練のすえ、自から身につけた武術によって実現させた場面らしい。それだけに、この一見弱そうな浪人の受け身の名剣法には、奇妙なリアリティがある。大島渚監督二二年ぶりの新作時代劇「御法度」が、幕末のテロリスト集団新選組に、美少年侍をめぐる衆道(ホモ・セクシュアル)の波風が立つ、という作品なのとも、何か共通点が感じられて、くすぐったい思いがする。
 強い人間が大義名分を押し立てて横行する時代が終って、人間が内に秘めた実力や本音に従って、秘やかに生き抜かねばならぬ時代がやってきている、ということでもあろうか。

 

 

杉並映画村通信 043 2000年03月掲載

 

 

杉並映画村通信

連載 第043回 

老人が中古トラクターで大陸横断。「ストレイト・ストーリー」

 現代アメリカの背徳や不条理を屈折した謎めいた映像表現で奇妙な映画にするのが得意だったディヴィッド・リンチ監督が、四年ぶりに不思議な新作「ストレイト・ストーリー」を作った。
 「エレフアント・マン」「ブルーベルベット」「ワイルド・アット・ハート」や、テレビの「ツイン・ピークス」などを監督した彼の今までのイメージを裏切るような、文字通り底抜けにストレイトな映画、なのである。
 「グレイフォックス」「赤毛のアン」の老優リチャード・ファーンズワースの演じる七三才の老人が、ノロノロ走る中古小型トラクターで、心臓発作で倒れた七六才の兄に一〇年ぶりに会うために、五六三キロのアメリカ中西部を旅する、という作品なのだ。
 カラー・シネマスコープ・サィズの大画面に、穀倉地帯の大地をゆっくりゆっくり行く彼の旅が、ストレィトに描かれていく映画である。太陽が照り、雨が降り、稲妻が走り、そんな中で老人は、いろいろな人間たちに出会っていく。
 主演する老優ファーンズワースは、ロデオ競技で生活し、西部劇映画のスタントマン(危険な演技の代役)をやった経験をもち、老いて役者として認められた人である。車が疾走する道を、中古小型トラクターで走る彼の姿には、馬で大陸を横断した開拓時代のカウボーイのイメージが、なくもない。
 出てくるのが、老人ばかりの映画でもある。これをヒューマニズム派の監督が撮ったら、鼻もちならぬ保守的アメリカニズム映画に、なってしまっていたかもしれない。しかし、意地悪な背徳派と監督が、あえて撮ったストレィトな映画なので、そんなところはない。
 これはコンピューター・グラフィックスの特撮万能の時代を迎えたアメリカ映画の商業大作群の対極にある、ストレイトでシンプルな、意地っぱり老人のロード・ムービーである。五四才のリンチ監督が、実話をもとに作った、一時間五一分のたった一人のフロンティア映画だ。

 

杉並映画村通信 044 2000年04月掲載

 

 

杉並映画村通信混乱と焦燥とカルト

連載 第044回 

必見の三本のアメリカ映画。「マグノリア」「グリーンマィル」「アメリカン・ビューティー」

 アメリカ映画「マグノリア」は、同じロスアンゼルス近郊に住む十二人の登場人物総てを主人公として同時進行する、世紀末の現代アメリカの、おかしなおかしな混乱と焦燥を描いた三時間七分のドラマである。それに対して、もう一本のアメリカ映画「アメリカン・ビューティー」は、ある中流アメリカ人一家の家族たちに登場人物を小さく限定した、これまた世紀末の現代アメリカの、おかしなおかしな混乱と焦燥を描いた二時間二分のドラマである。
 ともにアカデミー賞のいくつもの部門の有力候補になっていた映画で、この二本の作品がひとしく高い評価を受けているのだとすると、現代アメリカ社会の内包する実に奇妙な混乱と焦燥の度あいは、かなりのものであることが、映画の映像からは透けて見えてくる。それも、なまはんかなものではない、と実感されるところの。

 同じくこれもアカデミー賞各部門の侯補になっていた、「グリーンマィル」という、上映時間三時間八分の作品も、これまた複雑な思いで見た。「ショーシャンクの空に」という、久々の骨太のヒューマニズム映画を作った監督が、同じスティーヴン・キングの原作によって製作した第二作であるだけに、なおのこと考えさせられる。
 一九三〇